
日なたの八重のポインセチア。かたちがはっきりしているので、描きやすい花と思われそうだが、意外に難しい。日に当たった色は輝き、これを油絵はともかく、水彩で再現するのは容易ではない。だから、再現ではなく、「印象を記憶する」スケッチになる。葉脈も深くて影が鋭く、かたちもいい加減にごまかせない。
暮れ近くになると、花屋さんの店頭にずらりと並び、これをスケッチする人もきっと少なくない。
日なたの八重のポインセチア。かたちがはっきりしているので、描きやすい花と思われそうだが、意外に難しい。日に当たった色は輝き、これを油絵はともかく、水彩で再現するのは容易ではない。だから、再現ではなく、「印象を記憶する」スケッチになる。葉脈も深くて影が鋭く、かたちもいい加減にごまかせない。
暮れ近くになると、花屋さんの店頭にずらりと並び、これをスケッチする人もきっと少なくない。
ここ1年ほどスケッチばかりで過ごしてきた。たまには本画を描かないといけないと思いつつ。
サイズの大きな絵を描くと、発想が違ってくる。それは半分は脳の方から来るものだが、半分は身体の方からも来る。サイズが大きいと、筆のサイズが違う。一本の線の長さが違う。そこにかける腕の力が違う。その腕を動かす身体全体の姿勢や動きが違う。そしてそれを見る。―それが発想そのものに関わってくる。
よく恥ずかしげもなく、こんな下手くそな絵を見せるよなー、とご立腹の方はしばしご遠慮ください。自分でもそう思っておりますから、見るだけ時間の無駄というものです。
下手くそさに弁解は致しませんが、そんなことより、顔の中に緑を入れるための、法則のようなものが有るのか無いのか、有るとすればそれはどういうものか、がどうしても気になっている。というより、それがゲットできれば、少なくともわたし個人の絵作りの土台が、数ミリだけど、造形的にアップするだろうと直感的に感じているから。
描き方は、まるで昔の高校の美術の課題レベルだと思うけれど、高校卒業後50年以上も経った今では、そこからリスタートしてもおかしくない程の年代差があるだけ、むしろ興味本位になっている。何十年もかけて磨き上げた職人芸が、AIなどという“新参者”に、一瞬にして仕事を奪われる時代。再スタート、などとあえて云うほどガキ臭くもないが、そんな時代感覚を離れて、きっちり理解できないままスルーしてしまったことを、あらためて「きっちり」にすることが、なぜか今さらにして楽しくもある。
すでに周回遅れの身ならば、それが2周だろうと3周になろうと、どうせ大した違いはない。どうせなら、周回遅れを蔑(さげす)む人々がどんな顔をしているか、ゆっくり眺めながら周回するのも一興ではないか。どうせ解った風な馬鹿面の面々に決まっているから、その馬鹿さ加減をジャッジしながら走るのも面白いかもだぜ。