
先日のブログに上げた、「曼珠沙華=彼岸花」を描いてみます。花そのものは凄かったので、それを描くためののエスキースです。
一つ一つの花を描いても「彼岸花」にはなりません。その前に個別の植物学的分類というものがあって(それ自体も「揺れ動く」のですが)、「彼岸」という仏教用語に繋がる、歴史的環境的意味関係をいったんは断ち切ります。それを踏まえたうえで、秋の彼岸の時期にまとまって咲くこの花の、全体としての存在が「彼岸花」だというのなら、まとまった花の「情景」こそ「彼岸花」ではないか、なんて理屈を捏ねてみた試作です。
彼岸花を一個ずつ描いてもしょうがない(というより、意味がない)。かと言って赤のベタ塗りだけで判ってください(記号)ってのも、ある意味傲慢でしょうか。ペンで花の下描きをクルクルしてみたら、あの飾り花のクルクル感を「感じて貰えるかな~」なんて120%希望的観測の初回エスキース。甘すぎるのは解ってますが、でも他にどうやったらいいんでしょうね?
チューリップ畑ですか?といわれても返答ができません。コスモス?といわれたら、ちょっと違うかもーなんて言えるけど。花の「かたち」ではなく「花の情景」ですから、個々人の感覚に異を唱えることはできません。というわけで今回の弁解と致します。