Sazae

Laupäeval oli Saitama prefektuuri näituse autasustamine.。Ka mina võin olla kohapeal "surnud puu".、läks välja。Pärast lõpetamist、Nägin näitust, mida peeti selle koha lähedal.、Minge suurel hulgal otse pubisse.。Sellepärast、15Päeva blogi jäi üles laadimata.。

Mu selg valutab eile hommikust saati、Kuna on pühapäev, oleksin võinud lihtsalt laiselda.、Kui ma olen päikesepaistelisel päeval kodus、Turuhind on fikseeritud siis, kui vihma asemel satuvad majapidamistööd.。

Mu selg valutab pärast tööd veelgi rohkem.、Õhtust saati olen mopinud nagu röövik.、Järgmiseks kuuks haiku koostamine、Uinumine、Veetsin selle nagu pensionil vanainimese pühapäeva.、"Ma ostsin mõned turbanikarbid, nii et ma teen teile," ütles mu naine ja jättis ta sinna õhtusele jalutuskäigule.。Seal oli kirjas, et tegemist on elava turbani kestaga, kuid see oli "äärmiselt väike?"。Mu väike sõrm valutab, kuna karbid on liiga väikesed.。Lõpuks jõudsin selleni ja tegin sashimit.、ma pean midagi jooma...、(Nagu ma raiskaksin oma elu samal ajal, kui deemon oli ära) Unustasin valu alaseljas.、Käisin Bubuniga oma jalgrattale maitsvat vett ostmas.。

Ei piirdu ainult turbanikarpidega、Teatud tüüpi karpide jaoks、Seal on näpunäiteid, kuidas igaüks neist avada.。Karpides ei ole liha, mis oleks tihedalt koore külge kinnitatud.、Põhimõtteliselt "hõljub" kesta sees。See on lihtsalt mingil hetkel kestaga ühendatud nagu päästerõngas.、Kui selle osa ära lõigata, tuleb liha koos kõigi siseorganitega välja.。Kui sa seda ei tea, saad niikuinii ilusa sashimi.、Inimestel, kes tahavad maksa süüa, ei jää muud üle, kui loobuda.。Sellest on tükk aega möödas、Ma oleksin koha peaaegu unustanud。
Nagu paistab、2 veel、See maitses nagu midagi, mida tahtsin kolm aastat meres kasvatada.。                       

vasaku käe (käe) töö

数か月前から時どき左手というより左腕特にひじの少し上が痛むことがあった発端は庭木の枝切とか庭の中での移動のような作業だったと思うがいったん収まってからまた傷むようになってきたから根本原因はそれではなく単純に筋肉が弱ってきたからかも知れないものを持ち上げないときは忘れているから

左手(左腕)も案外使っているものだとこういう時だけ実感する小さい頃はたぶん左右どちらも同じように使えていたと思うのは何度も「お箸は右手」と叱られた記憶があるから現代の家庭ではどちらでも構わないようでわたしの場合もそのままどっちも使えるようにしてくれていたら今ごろ便利だったろうと思う

パリ・オリンピックパラリンピックが近いたくさんの種目の中に腕や手のない選手が陸上競技それも100mとか200mとかのトラック種目がある。Pilguheit、「脚」で走るのだからたとえばどちらかの手首から下が無くたって走るのにそう影響は無いだろうと思う人もいそうである
 でもどちらか片方の手ポケットに入れて走ってみるととても全速力でなど走れない人間だけでなく多くの動物も案外ギリギリのバランスで動き生きてるんだと思う

両手を使えることは素晴らしいこと右利きのばあいつい左手は「副」とか「添え」扱いのような意識になりがちだが左手を右手のように自在に使える人を見ると全然別レベルの「超能力」的なことができることに驚くいろんな技能脳力の(自己)開発が言われるが単純に左手開発だけでも十二分に凄いことになると思う

「時間の無駄」って?

「時は金(かね)なり」嫌な言葉だ「光陰矢の如し」Time flies. どれも嫌な言葉だ「今日のことは明日に延ばすな」どうしてこうも息苦しく脅迫的な言葉ばかり世の中に溢れているんだろうか

バットI knouw-わたしは知っている。ei、皆が知っているそれはみんなが(わたしと同じように「時間を有効に使うのが苦手」だと`自覚しているから)聞きたくない言葉でありつつけれどもそれじゃダメなんだという「ダメ人間コンプレックス」を持っているからですよね?

時間の無駄をするような奴はろくなものになれないでも―ロクなものになりたくないなら話は別かもそもそもロクなやつってどんな奴なんだろう時間の無駄をする奴は金を稼げないあるいは金持ちになれない。aga、逆に考えれば時間と体力をお金と交換しているようじゃ今の時代むしろダメなんじゃない?むしろお金があれば時間を買いたい人の方が普通なんじゃない貯めてどうする?みたいな
 「早起きは三文の徳(得?)」たった三文(って何円?)くらいじゃその分寝てる方が健康的だし大リーグの大谷選手だって「余分に1時間あったら寝る」方が良いパフォーマンスできるって言ってるよ

でもやっぱりまだ一般的な社会通念としては時間をなにか「生産的なもの」と結びつける近代的というか産業革命以後的というかそういう思考法から抜け出ているとは思えないよね太公望じゃないけどボーっとした時間を過ごすことが人生の理想だという思想もあったはずなんだけどいまはそういう選択肢がひと昔より減ってしまったのかな選択肢が増えること=文化の発展なんて言い方もあったけど待っても² 実現しないから干からびてしまったのかもね「そんな誰も読まないブログを書くなんて時間の無駄よ」と後ろの方で(昔は絵を描く仲間だったのに)妻がイラついているしね
 それはちょっとつらいだろうけど、aga、絵を描くって時間を二重三重に(ホントは四重五重)無駄遣いすることだ(説明もなくいきなりだけど)と思うんだ何度も同じ時間を繰り返し(現実の時間は容赦なく過ぎているのだが)そうしているうちに何かぼんやり浮かび上がってくるそれを描くのが芸術家の仕事だと思っていたけどもう世界観が違うんだよねグダグダ言わずサッサと消えなければ自分を守ることさえできないそれが現代さ……常盤(ときわ)金成