ウィリアム・ブレーク

ウィリアム・ブレーク 「ダンテに尋ねるベアトリーチェ」 水彩

ふとウィリアム・ブレークを思い出したウィリアム・ブレーク(1757-1827)は非常に宗教色の強い作風の詩人・画家だ版画職人でもあるらしい彼の絵を初めて見たのは学生の頃今から40年ほど前のことデッサンの狂っているようなちょっと変わったデフォルメが印象に残ったが詩人の余技だろうとタカをくくってそれ以上踏み込まなかった

それから10年ほど経ってあるきっかけでイギリスに10日間ほど立ち寄れることになったのでイギリスの水彩画を少しだけ集中的に見ることにしたまずは常識的にコンスタブルとターナーが第一候補である

まずはテートギャラリーへたまたま「ウィリアム・ブレーク展」が開催中大した絵は無いだろうと思いつつもポスターを見ると何だか胸が騒ぐまあ同じ水彩でもあることだしと少しだけ道草を食うことにしたこれが思わぬ大正解

ブレークの焼けるような熱い魂に触れた気がした誇張ではなくほとばしる勢いに圧倒された自分のやっていることはいかに気持の薄い態度であったかと打ちのめされる思いでその作品群を見たそのあとコンスタブルもターナーも確かに見たはずだが全く覚えていない(東京でルオーのパッション全作品を見たときもそんな感じルオー展会場から銀座の街へ出た時街から色が無くなってしまったように感じたのを思い出す

最近まるで自分の絵に自信が持てなくなった(それはとても苦しいことだが必ずしも悪いことばかりとは考えていない)他人の真似をしているとは思わないが五里霧中どこに自分が居てどこに向かって歩いているのか分からなくなったのだついどこかで他人のトレイルを辿りたくなるそんな時これからは「ブレークを見よ」と自分に言い聞かせよう

ブレークの評価は高いが万人に心地良い絵だとはとても思えない息苦しいような責められているような誰しもそんな思いを少なからず感じさせられるに違いない人によっては不快でさえあろうそれを突き破って進むあの情熱失ってはいけないものをいつも私に思い出させる絵なのである  2011/10/28

こども作り大学?

「こども作り大学」の看板を大学の建築学科棟で見た一瞬「えっ?」という感じ少子化でいよいよ建築学科でも受精や妊娠障害の研究でも始めるのか?目をこすってよく読めば「こどももの作り大学」紛らわしい看板にちょっと驚いたぞ

これが生涯学習講座の替わりにやりたいことの一つらしい目的はともかく方法論や先の展望も無いまま見切り発車して赤字増産の責任を下へ下へと垂れ流すいつものパターンでスタートするようだ一種の子供囲い込みを画策している訳だがそんならいっそ本当に「こども作り大学」からスタートした方が確実かも知れない

入学時の18歳までの学力の差に比べると、18歳からの可能性の方がはるかに大きいと思うしかし日本では18歳の学力差である意味では一生取り返せない差に分けられてしまう会社も一度辞めるとすぐに社会の底辺に落ちてしまい滅多なことではそこから這いあがれない日本社会「諦めずに何度もチャレンジ」と学校でも社会でも掛け声だけは大きいが本気になってそれを可能にするシステム・政策を作ろうなどとはしていない切り捨てるだけただ単にコストとしてしか人を見ない人がどれだけの力を持っているかについて想像力を失ってしまったかのようだ

そんなわけで三流大学になるとそのレッテルを嫌って学生が来たがらない定員を満たせない大学は必死に学生をかき集めるいつのまにか学生一人が「個性」や「可能性」ではなく「授業料」そのものに見えてきても不思議はない

学生が授業料にしか見えないような大学ならさっさと退学し一冊のスケッチブックを持って世界を見学して回る方がよほど有効な「授業料」になるかもしれない「こどももの作り大学」で小学生時分から将来この大学に親しみを持つように刷り込みをするなどなんて浅はかで馬鹿馬鹿しく情けない発想だろう文科省による近年の理科系科目へのこどもの誘導策も同じ次元の発想だこどもは大人ほど馬鹿ではないことを知らない国は亡ぶしか道はない  2011/10/23

 

 

 

 

 

 

 

Modern art American

Astronaut F4 2011

モダンアート・アメリカン展を国立新美術館で観たヨーロッパ直輸入の時代から次第にアメリカの風土性が強くなりやがてヨーロッパとは違う独自の道を歩み始めそこに自信を持つに至るプロセスを分かりやすく並べてある

ジョージア・オキーフという女性画家(写真家アルフレッド・スティーグリッツの妻でもあった)大画面に蘭などの花の一部分だけを特にクローズアップして女性性器かと一瞬見紛う表現などで知られているその写真的な手法など一流の写真家であるだけでなく現代美術の隠れた天才ディレクターでもあったスティーグリッツのアイデア戦略そしてオキーフの感性を見抜く目を抜きにしては語れない(はず)

そのオキーフの作品が3点ほど出ているどれもあまり大きくないがそのうちの20号ばかりの一枚の枯れ葉を描いた作品に特に魅かれた前面に一枚の大きな白っぽい葉その後ろに赤茶けたもう一枚の葉が重なっているさらにその後ろの葉と全体で3枚の葉っぱを描いているだけだ前面の白い葉の一部にそれが枯れ葉である証拠の乾いた亀裂が入っているのがこの絵の核だと思う背景も白色彩は主に白と茶色の葉それに背景の白だけの単純さでモダンアートの旗手の一人としてはむしろ地味な絵だ

多分実際にきれいな色の葉っぱだったのだろう何となく拾い上げて手に乗せて見た普通ならそのあと捨ててしまうか描こうとして持ちかえっても結局描かずに捨ててしまう。de、そこに長い一本の亀裂がオキーフの目を捕えた何かが閃いてそれが絵になった葉も大事だがこの亀裂が絵の核だというのはそういう意味であるもちろんこれは私の勝手な空想に過ぎないけれど絵というのは往々にそうやって生まれてくるものだからだ

エドワード・ホッパーの絵にも魅かれる男が座っている何でもない光景だしその前にもその後にもたくさんの男も女も座っているのを見ていた筈なのにその時その場所での男がホッパーに突然の閃きをもたらしたのだその男をあえてモデルに雇ったとしても描く気持になったかどうか(制作にあたってモデルを使ったかどうかは関係無い)

クリフォード・スティルこれら世代は異なるがアメリカの絵画はモダン時代の最先端というイメージが強く日本人が真似るとことさら新奇激しさけばけばしさなどを強調するが実際に見ると案外に地味なのであるその発想も自分自身に発していてむしろ謙虚で素朴というモダンアートのイメージと矛盾した言葉さえ浮かぶ日本人はアメリカ絵画の本質をどこかで見誤っているのではないだろうか絵画の本質はレオナルドの時代でも現代でも変わっていないような気がする日本でもアメリカでもそういう大事なことを教えてくれる展覧会かも知れない 2011/10/16