Apple sa landscape

Apple sa tanawin(Ideya)

Bago magising、Pinangarap ko ang isang poster na Kokoshka。2019Ang "Vienna Modernism" na eksibisyon noong Mayo 2019、Ito ang pangarap ng pagpipinta nang makita ko ito sa Uematsu-kun mula sa Osaka.。Ganap kong nakalimutan ang tungkol dito、Nang walang babala、Bigla itong lumitaw sa panaginip ko。Bago mawala ang aking memorya、Sa ngayon, sinubukan kong "halos magdagdag" sa canvas ng ika -100 na isyu na iginuhit ko (siyempre, ang mga poster ng Kokoshka ay mas sopistikado).。

Sa nakaraang linggo o higit pa、Ako ay nasa isang estado ng pagkantot kapag ginagawa ko ito ... ang direksyon ay naayos - ang paraan ng pagguhit ay halos maayos - "Ngunit hindi ako makakakuha ng anumang mga kongkretong imahe" - Nakaramdam ako ng inis、Gumuhit ng isa pang maliit na larawan、Patuloy kong iniisip ito sa lahat ng oras habang gumagawa ng maliit na trabaho at paglilinis ng atelier。Ngunit ... walang dumating、Nagsisimula na akong makaramdam ng kaunting pagkabalisa。

Ang Oscar Kokoschka ay ang ika -20 siglo、Marahil siya ay itinuturing na isang "expressionist painter."。Ipinanganak sa Austria (Pangwakas na nasyonalidad ay nasa UK)。Namatay sa Switzerland。Sumali rin siya sa mga separatista ng Vienna kasama sina Klimt at Schiele.、Gumagawa siya ng isang kamangha -manghang pagtatanghal (natutunan ko ito sa kauna -unahang pagkakataon mula sa kronolohiya).、Tila nagturo din siya sa Bauhaus.。Ngunit sa huli hindi ako sumali sa pangkat.、Siya ay isang tao na naglalakad sa mundo mag -isa。
Upang maging matapat、Ang kanyang mga kuwadro ay hindi pa rin naiintindihan、Hindi naman ako ganito。Ngunit kahit papaano, isang bagay tulad ng "timbang" ng trabaho、Hindi niya ako pinakawalan。- Pagkalipas ng tatlong taon, kaninang umaga, bigla itong nagsimulang tumayo bilang isang unan sa panaginip.。- Huwag kalimutan ang paghahayag ng iyong mga pangarap、Agad akong tumalon sa itaas at hinanap ang katalogo ng eksibisyon.。

Sa isang panaginip、Pakiramdam ko ay sumigaw ako "Ito na!"。Nakatingin sa orasan, tiningnan ko ito bago mag -6 ng umaga。Natulog ako bandang 1:30、Ang pagtulog ay tila isang tiyak na "banal na time zone."。"Ang Diyos (kung mayroon) ay nagpakita ng Kanyang ideya.。Kung hindi mo ito ginagamit、文字通り罰が当たる」と思いながら寝具を跳ね除けたのだった

スポーツに「参加する」

アロエ

冬季オリンピック北京大会が終わったネットで女子のカーリングのライブを見ながらスポーツの新しい流れを見たような気がした競技の中に視聴者が「参加しているかのような」感覚を持たせる「疑似(あるいは視覚)参加型」ゲームがこれからのスポーツの主流になるだろうと感じたからだ
 スピードスケートやフィギュアなどでは応援はできても「参加」意識など経験者以外には絶対に持ちえない(たぶん)

画面に映るストーンの配置を見ながら「こうすればこうなるのでは」と自分なりの作戦を描き選手が実際に放つコースや早さに「あ~!」とか「ナイッシュー!」などと声を上げた人も少なからずいたに違いないと思わずこちらの口元もゆるむ

カーリングは「氷上のチェス」などとも呼ばれているらしいそんな言い方から、Isang hitsura、将棋や囲碁の世界と通じるように感じる人もいるかもしれないがそうではないやはりスキーのジャンプ競技や陸上競技の円盤投げやハンマー投げなどと同じような物理的要素「質量速度(温度)摩擦力」の組み合わせ方をどう読みそれを自分の技術・体力とどう関連付けて使うかという現在のスポーツの本質にしっかり繋がっている競技なのである、Sa tingin ko ito。「物理」は誰にとっても常に明らかな現象であるだからこそど素人のわたしなどにもある程度の想像が可能になるのであり(これからパラリンピックが始まるが)その想像的参加が「身体の稼働領域」を越えてゲームへの参加(意識)につながるのではないか、Sa tingin ko ito。

その意味でわたしなりに言い換えれば「氷上のビリヤード」の方が「チェス」よりはるかにカーリングのような「物理」的現実に近い。kaya pala、これは将棋よりもっと手軽にゲームにもe-sports になり得る。Marahil、もうなっているだろう「参加型」と言ったが「*参加することに意義がある」と言ったクーベルタン男爵のおそらく彼の予想もしなかった新しいかたちでその理想がやっとこれから少しずつ実現されていくのではないかとも考えた

*(この言葉の内容にはさまざまな意味・解釈があるらしいここでは訳語の字面通りに解釈しておく)

「モーラステープ」

モーラステープを描く(watercolor)

鎮痛消炎剤の「モーラステープ」を貼りながら現代人の癒しの最前線はこういうものかもと考えていたそしてこれこそ「最も現代絵画にふさわしいモチーフ」のひとつかも知れないとも切り取り取り出しやすく保存もしやすい内容物・外装ともシンプルで軽量かつかさばらず機能的で無駄がないまさに「『現代』のモノの象徴」だ

何を描くか(対象物)それが何を「主張」しているのかは絵画にとっての背骨である、Tila。けれどそれはあくまで「現代では」のことで絵画の歴史を眺める限り(対象物を)「どう描くか」という技術的レベルのことに圧倒的な比重があったように見える「主張」などどうでもよかったというよりそれは自らを危険に晒すものでさえあった

少なくとも近代までは巧みな描写力こそ画家の力量そのものでありそこにどんな主張を盛り込もうと大衆はそんなことに興味など持たなかった(たぶんおおかたは今でも)さすがに現代では「描写力=写真的な写実力」という古く単純な公式だけで済ますことはできなくなったカメラとコンピューターが一つになったことで「写真」の定義そのものが揺らぎ始めてきたからである

すでにわたしたちの脳裏には「カメラを持ったサル」としての「映像的世界観」が染みついている行ったことのない場所のことをそこに住んでいる人より雄弁に語りすでに亡くなった人について家族より詳しく「見て」知っているそれどころか100年後の自分の子孫の顔まで見ることもできるそんな世界で「絵画」に何が出来るのかたとえば「描写力」ということにどんな意味を持たせることができるのか「現代絵画」にそんな力があるのだろうかそもそも「現代」「絵画」とはいったい何なのだ

絵画はもう終わっているとすでに書いた覚えがある。Pero、きっと絵を描く人はいなくならないし、kabaligtaran、いつの日か子どものように無心に誰もが絵を描くときが来ないとも限らないたまたま「わたし」の目の前にある「モーラステープ」は「わたし」に結び付く地球の歴史すべての中の最終的な一つでありとりあえずは「映像的世界観」の中でなくいま「わたし」の生命感覚と最も近く結びついているあらゆるモノの中のひとつだ(いずれそれもバーチャル(仮想)のひとつと見做されるかも知れないが)それはまるで偶然のようだがそれがモノの真っただ中に生きている「世界の中のわたし」の現実であるような気がするそれを「写真に撮る」「写真的に描写する」だけでは「バーチャル世界観」そのものの中に自ら埋没しようとする自殺行為になりはしないか。kaya pala、ひたすら「自分にとっての」描写の「意味」にこだわりたい―そこにかつての美術史にはあった輝かしい意義はもう見いだせないけれどそれでも「わたし」なりの意義を求めるそれがモーラステープ「であることを見せる」ためではなくわたしがこれを描こうと「選んだ理由」を示すために。pero、それが「絵を描く」ってことなんだろうか(この項未完)