
ズッキーニを続けて描いているが、これが好きだというわけでは全然ない。前に描いたものと比べるために描いている。röviden、一種の研究ですね。
先日「コリンキー」というかぼちゃを見た。生で皮まで食べられるという。美しい黄色が魅力的なので、今度描いてみようと思う。それも、それほど好きでなくても何枚か描くに違いない。

たとえばボス(レオナルド・ダ・ビンチとほぼ同時代ながら、中世の幕を最高の形で引いた人と言っていいだろう)。20世紀のはじめ、シュルレアリストたちによって「再発見」(=賞賛)されたのは、彼らがそれまで戦っていたアカデミックな絵画とのズレからではなかったか。
ルネサンス以後に確立された、アカデミックな世界観から逃れ出る道を探していたシュルレアリストたちに、こんな方法があったのかと「再発見」されたのだ。ボスの絵も広く言えば油彩ではあるが、その単純、原始的な方法はイラストの手法の原点でもある。
ボスの絵がなぜ今新しいかと言えば、現代の絵画、視覚がアカデミックな油彩表現から、より単純なイラスト的表現に向かっているからだ。人類は人工知能の支配下に置かれるのではないかという、近い将来への不安を前に、難しい、職人的技術なしに誰でも描ける手法が、人類の最後の表現にとって必要不可欠だと直感させるからであろう。そう考える人も現実はこれまでの視覚の中に生きている。そのズレが新しさを感じさせている。
しかしボスの作品そのものは、当然ながら「誰でも描ける」ものでないことは言うまでもない。

見る人にとって、自身が既に獲得しているかたちや色彩のカタログ?とのある程度のズレは興味や好奇心を抱かせ、ズレの内容によって「好き・嫌い」などに分かれていく。ズレが大きければ時に衝撃となる。
このオーバーラップは(意識はされなくても)言葉によっても同時になされている。語彙の量はそれなりのハンディとなる。例えば「紫」という語を知らなければ眼には見えても、それを表現として使うことはできない。「紫」という語は色の引き出しを開ける鍵(文字通りのキーワード)だからだ。
かたちや色を考える時、自然再現的なそれらとのズレを工夫することが、単独のかたち、色の工夫より重要ではないかと考える。