スターバックスを描いてみたら・・・

スターバックスのエスプレッソを描く  (CGスケッチ) 

「スターバックス」を描いてみた単純な色づかいで初心者向きかなと教室でのモチーフ用にサンプルとして買っておいたもの(我が家の誰かにすでに飲まれていたが)

近くで見ると暗い部分だけでも数段階に分けられていてしかも明暗差が非常に小さい(微妙)それを教室の人たち全員が「絵の具で」表現できるとは思えないと感じて断念したそこがこのデザイナーのプライドなのかもしれません

仮に「水彩」で描くとする水彩は「明→暗」という一方通行しかできない画材色を見分けることができたとしても所定の明度に収めるためにはバランスを比べながら最低でも数回の塗り重ねが必要になる筆で描けば必ずいくらかずつズレが生じる(その良さもあるのだが)そのうえで離れて見ればピシッと決まるためには巨大サイズでないと描き分けが難しいweb 上と実材(絵の具紙など現存の素材)の感覚の違いの一例

こういうモノを描くようになって感じるのは「デザイナー」ってすごいなってこと「芸術至上主義」的に生きてきたわたしにはどこかで無意識にデザインというものを「芸術」より軽視する気持ちがあったのかもしれない最近のスケッチを通してひしひしと反省している

キャラメル・ポップコーン

Caramel Popcorn (CG)

ポップコーンを食べたのは何年ぶりだろう子どもが小さかったころの記憶しかない別に食べたかったわけではないがふたが開いたように描きたかったから選んだ理由も絵のモチーフに使えそうだっただけ―こう言ってしまうとメーカーに申し訳ないが久しぶりの味はまあまあ美味

漢字に「筆順」があるようにこんなスケッチにも「描き順」があるそれに従わなくてももちろん描けるが何倍かは苦労するその順序に「公式」などはなくはケースバイケースで経験から割り出すものしかないたぶん法則性はあるのだろうがそれはずっと先の話

今日も2時間近くスーパーの店内をうろついたいったん決めたものを棚に戻したり傍から見ると「何やってんだろう?」と不審がられているかもしれない明日は(もう今日だ)は「(イワシの)目刺し」教室が生臭くなりそう・・・絵のためだ我慢したまえ

「モーラステープ」

モーラステープを描く(水彩)

鎮痛消炎剤の「モーラステープ」を貼りながら現代人の癒しの最前線はこういうものかもと考えていたそしてこれこそ「最も現代絵画にふさわしいモチーフ」のひとつかも知れないとも切り取り取り出しやすく保存もしやすい内容物・外装ともシンプルで軽量かつかさばらず機能的で無駄がないまさに「『現代』のモノの象徴」だ

何を描くか(対象物)それが何を「主張」しているのかは絵画にとっての背骨であるらしいけれどそれはあくまで「現代では」のことで絵画の歴史を眺める限り(対象物を)「どう描くか」という技術的レベルのことに圧倒的な比重があったように見える「主張」などどうでもよかったというよりそれは自らを危険に晒すものでさえあった

少なくとも近代までは巧みな描写力こそ画家の力量そのものでありそこにどんな主張を盛り込もうと大衆はそんなことに興味など持たなかった(たぶんおおかたは今でも)さすがに現代では「描写力=写真的な写実力」という古く単純な公式だけで済ますことはできなくなったカメラとコンピューターが一つになったことで「写真」の定義そのものが揺らぎ始めてきたからである

すでにわたしたちの脳裏には「カメラを持ったサル」としての「映像的世界観」が染みついている行ったことのない場所のことをそこに住んでいる人より雄弁に語りすでに亡くなった人について家族より詳しく「見て」知っているそれどころか100年後の自分の子孫の顔まで見ることもできるそんな世界で「絵画」に何が出来るのかたとえば「描写力」ということにどんな意味を持たせることができるのか「現代絵画」にそんな力があるのだろうかそもそも「現代」「絵画」とはいったい何なのだ

絵画はもう終わっているとすでに書いた覚えがある。de、きっと絵を描く人はいなくならないし、oda-vissza、いつの日か子どものように無心に誰もが絵を描くときが来ないとも限らないたまたま「わたし」の目の前にある「モーラステープ」は「わたし」に結び付く地球の歴史すべての中の最終的な一つでありとりあえずは「映像的世界観」の中でなくいま「わたし」の生命感覚と最も近く結びついているあらゆるモノの中のひとつだ(いずれそれもバーチャル(仮想)のひとつと見做されるかも知れないが)それはまるで偶然のようだがそれがモノの真っただ中に生きている「世界の中のわたし」の現実であるような気がするそれを「写真に撮る」「写真的に描写する」だけでは「バーチャル世界観」そのものの中に自ら埋没しようとする自殺行為になりはしないか。Így、ひたすら「自分にとっての」描写の「意味」にこだわりたい―そこにかつての美術史にはあった輝かしい意義はもう見いだせないけれどそれでも「わたし」なりの意義を求めるそれがモーラステープ「であることを見せる」ためではなくわたしがこれを描こうと「選んだ理由」を示すために。De、それが「絵を描く」ってことなんだろうか(この項未完)