
夢うつつに絵のことを考えている。
「色彩は迷路だ」という声がする。同時に数枚の絵がスルスルと目の前に現れて実例を示す。なるほどそうか。今度は色のない、素描のような絵だけが現れ、「でも、色があると楽しい」という。それもそうだ。
いつのまにか夢は終わり、現実(まだ横になったままだが)の作品のことに意識は移っている。夢の中の絵は記憶の中にはっきりと残っている。

夢うつつに絵のことを考えている。
「色彩は迷路だ」という声がする。同時に数枚の絵がスルスルと目の前に現れて実例を示す。なるほどそうか。今度は色のない、素描のような絵だけが現れ、「でも、色があると楽しい」という。それもそうだ。
いつのまにか夢は終わり、現実(まだ横になったままだが)の作品のことに意識は移っている。夢の中の絵は記憶の中にはっきりと残っている。

目が覚めたらテレビがついていて、サッカーワールドカップ決勝を放送している。シーツを敷くポーズのまま布団に突っ伏して、どうやら眠ってしまったらしい。LIVEかどうかさえおぼろなうちに、(フランス対クロアチア戦)フランス3点目。直後に追加点。さらに目を白黒させているうちにクロアチアが得点して、4-2。
不思議な感覚。目が覚めたらいきなり決勝のクライマックス。見たいとは思っていたが、放送時刻が遅く、あえて見ようとはしていなかったのに、なんとラッキーな。私、本当に少し元気になってきたんだな、と思う。

絵画の原点。大げさなタイトルのようにも見えるが、私には次第にハッキリしてきた、と思う。
絵画の「原点」はある意味、時代とともに動いてきた。Így、ここでいう原点とは、「現代において」である。Habár、人間の歴史が途切れることなく続いてきたように、歴史的な「原点」も現代の原点に繋がっていることは当然だ。
「自由に描くこと」。それが原点であり、それが最終的な「理想」である。それを忘れないこと。多くの作家がいて、それぞれ自由に好きなものを好きなように描いている。全ての画家が理想を達成、謳歌しているように見える。De、それは本人を含めて、殆どの場合、「錯覚」である。「自由に描く」ことと、好きなように描くのとは次元が違うことに気づいていないからだ。(この項続きます)