Hindi tumawid ang mga landas

Buhay pa rin na may mga bote ng alak(Watercolor)

7Pitong araw na mula nang ang buwan。Ngayon ay si Tanabata。pero、Hindi naman ako ganun。Hindi mahalaga kung gaano karaming mga tao ang nais para sa kapayapaan sa mga bituin、Hindi mahalaga kung gaano karaming mga tao ang nais para sa isang mundo na walang sakit at sakuna,、Sumabog ang War ng Ukraine、Kumalat si Corona。Sa huli, wala kang pagpipilian kundi upang maprotektahan ang iyong sarili、Ang pakiramdam ng pag -urong、Sa kabaligtaran, tila kung mayroon man, mayroong isang agresibong momentum na lumulutang sa ilalim.、Ganito ang pakiramdam ko。

Hindi lamang America、Maging ang Denmark ay may mass shootings。kailan、Nasa panahon na tayo ngayon kung saan hindi nakakagulat na may katulad na nangyayari kahit saan.。Kung ang mga batas sa baril ay tulad ng Amerika、Ang mga pagbaril sa masa ay isang pang -araw -araw na pangyayari sa Japan.、Maaari mong isipin ito sa pamamagitan ng pagtingin sa Daily News.。

Kumusta naman ang sining。Una, tila ang mga bagay na ito ay hindi makikita sa mga mata ng mga tao.。sa pangalawang saloobin、Gusto ng mga tao ng mga bagay。Gusto ko ng pera。Gusto ko Kenryoku。Sa kasamaang palad、Ang tuwid na kalsada ng pagnanasa ay nagpapatuloy、Hindi tumawid ang mga landas。

sa ngayon、BBC Breaking News、Nag -resign si Punong Ministro Johnson。Ito ay malamang na ilipat ang direksyon ng digmaan sa Ukraine sa kalamangan ng Russia.。Naglabas ang Russia ng isang maligayang pagdating ng puna。

酔芙蓉

V.S.O.P (ペン・水彩)

V.S.O.P ってなんのことかいな?じっと画面を見ていると・・・突然ひらめいたのではないでしょうか。tama yan。なにか金魚鉢のようなものの裏側に逆文字に書かれている文字らしきもの。Kung gagawin mo iyon、これは金魚鉢ではなくブランデーグラスなのかも知れません

後ろはナニかな?ピクルスの瓶が並んでいると言うと「ん~ン、oh mahal、そう言われれば瓶の中にレンコンらしきものとか入っていそうだし」でしょ。Mabuti na、手前のピンク色は何だよと少し唇が尖ってくるのを感じます―「酔芙蓉」ですいや~全然そうは見えないよ(下手くそだなあ)っていう人もいるでしょう作者でさえ半分はそう思っているんですから当然です

グラスには水らしいものがあるが少なくともブランデーではない(色が)酔芙蓉が酔うにはアルコールは必要ないのかあるのか酔っているのはおまえだろうなんて妄想を逞しくしていただければ嬉しいがここでは画面上の個々のアイデアがまだうまくつながっていないというか考えがまだ浅いってことが見えています。Mabuti na、どうしたらいい?というところからこの絵は再出発します

pero、何となく絵になりそうな予感がありますほろ酔い程度に

1000回視聴されました

「クロワッサンを描く」をアップロードしました編集にはいつも苦労しますが今回も何カ月もかかってしまいましたそれだけ苦労しても一瞬で忘れてしまうこの旧時代の「脳ミソ」が「残念の素」悔しいが他にうまい使い道はないものかと考えている脳自体がもそもそも「残念の素」なのだから推して知るべし

昨夜遅くYouTubeにアップロードしようとしたら「1000回視聴されました」と笑顔マーク付きの表示が出ていたこの1000回は一本の動画に対してではなくわたしがアップしたすべてのコンテンツの合計でも正直なところ自分なりに「えっ!凄いじゃん」と思った。Lahat、見てくれてありがとうこの程度の動画に計算するのも嫌なほどの時間を費やし「自分はまったく無意味なことしてるんじゃないだろうか」という不安に悩まされる毎日少しだけでも見てくれた人がのべ1000人いるっていう数字はそのストレスをいくらかは解消してもらえた気になるんです

単純計算すると昨年9月 YouTube に初投稿して約10カ月だから、1000÷10=100/月ということになる平均すれば毎日3人以上わたしのビデオを見てくれたことになる毎日3人に(たとえ既知の人でも)あらためて自分のことを知ってもらう機会なんて普通の生活であるだろうか? 1つのコンテンツだけで数万回、100万回以上の再生回数のある「超」人気コンテンツなどわたしもたまに見るが可愛い子猫があくびをしているだけだったりドジな人があほらしい失敗をしたとかの他愛のないシーンの投稿だけだったりすることも少なくないそれでもそれは視聴者に癒しとかリラックスとかの何らかの価値を与えているのだろうと動画投稿を始めてから思うようになったそれまではそれらは「無意味ではないが無価値」なものとしかわたしには映っていなかった

日本ではあまり感じないが(オンラインで見る世界だけでも)それだけ多様な価値観があるということだろうGAFAを筆頭とする商業的な思惑を誰しも根底に感じつつ誰もが伝えたい(共有したい)ことを伝え誰もが欲しい情報をできるかぎりストレートに受け取ろうとする時代そういう時代になってきたんだなあと始まったばかりのわたしのYouTube体験を通じてそう思う