
「絵になるモノ」を探すと、つい古典的な発想になってしまう。自分だけモダンな構図、構成の絵になったと自己満足できても、一歩引いてみると、その感覚がどうしようもなく化石化している夢を何度も見る。
お酒を飲んだついでに、おつまみを描いてみた。現代のもの、たとえばステンレスとか半透明のプラスチックとか、「絵にならなそう」なものも、描いてみればそれなりの面白さも無くはないし、技術的な練習になら十分意味もある。あるものを絵画と呼び、あるものをスケッチと呼び、あるものをイラストとどこかで区別して、それぞれに別の考え方をする癖が、すっかり自分についてしまっている。
「どうやったら絵になるか」に頭を悩まし、教室でも同様に、そんなこと気にしない人々まで全員を悩ましてきた。「自分らしい絵を描きましょう」とか言って、そのための背景とか、構図とかの考え方など教えたりしてきたが、本当はそのことでかえって伝統的な考え方にはめ込んでいたのかもしれない。
眼に入ったもの、絵になってもならなくても、手当たり次第に勝手に描く。必要があれば今はなんでも調べられる。なんでもどんどん描けばいい。悩む必要も、悩ませる必要もなかったのかも。今頃になって、笑うしかないけど。