絵が生まれていく 新しい作品を模索中。過去、いくつかの未完結のシリーズ?があり、「飛ぶ男」もその一つ。「シェルターの男」や「新生」もそこから派生して尻切れトンボになっている。途中で消えてしまったそれら「青の連作」と、現在進行形の赤や黄色の「Apple」とに分裂したイメージをそろそろ結びつけたいと願う。 かたちはAppleのようでもあり、「飛ぶ男」を閉じ込めたカプセルのようでもある。青の作品群の亡霊のようでもある。যাইহোক、まだ混とんとした状態。果たしてひとつのかたちに辿り着けるのか。いまはまだ波の泡のようだが、わたしの絵はこんなふうにして生まれていく。
夜景と透明水彩 夜景を描いてみる 「夜景ー花屋の前で」 水彩 「夜景」は透明水彩向きの画題ではないんだなー、とあらためて思う。透明水彩という技法は、薄~い絵の具層を透過した光が紙の白さを反射して、ふたたびその層を透過して眼に入る仕組みを原理にしたものだから、紙を黒々と塗ることは本来的に矛盾することになる。 ちなみに油絵具では、透明層と不透明な物質層があり、透過光と物質反射(表面反射)という、二つの視覚への通り道がある。それが油絵の重厚感と深みを生む(もっとも、現代の絵画ではこの「透明層」が嫌われていますが)。ついでに言うと、同じ水彩画といっても「不透明」いわゆるガッシュで描けば、油絵と基本的に近い考え方になります。যাহোক、油絵具のような透明層が無いので、それはそれでまた別の問題が出てきます。 その矛盾を和らげるには、暗い色はなるべく薄く塗るほうがいいことになる。তাই、紙の白さを残すんですね。残った紙の白さとの対比によって、より暗く「感じさせる」のが、透明水彩という技法です。見たままではなく、効果を考えて描かなくてはならない。そういう意味で、油絵よりよっぽど高度で、また技術的にも難しいんです。 少し脱線しますが、子どもには、水彩より油絵を先に親しませた方がいいというのはわたしの主張でもありますが、日本はそういう意味では「(自分も含め)周りを汚さない」「匂いがある」「荷物が重い」等々、芸術という点からみれば本質的でないことが優先順位が高い。いろいろ問題はあるが、簡単な方から始めるのがいい、というのが基本です。 話が逸れましたが、そういうことで、「夜景」は普通に思っている以上に難しいんです。なんだか弁解に聞こえますが、だからチャレンジしたくもなるんですよね。※2024.7月11日に「夜の花屋前」というタイトルで、同じモチーフで別バージョンの絵を描いています。どうぞ比べてみてください。
押絵羽子板 スケッチ中 実際の年賀状には使わなかったが、デザインだけしてみた。モチーフの押絵羽子板は、ひょんなことから人を介して頂いたもの。埼玉県春日部市の伝統文化の一つとして有名だ。製作者の名は知らないが、なるべく実物に似せて水彩で描いてみた。 描いてみて驚いたのは絵師のデッサン力である。製品自体は一点一点手描きしているとは思わないが、少なくとも最初の絵は構図・構成も含め、誰かが描いたものだろう。 押絵羽子板は布などを立体的に貼りつけて作ってあるものだが、顔や指などは一応平面上(厚みのあるスチレンボードのようなもの)に描いてある。それに陰影で立体感をつけてある。伝統的な意匠に沿いながら、意外に(と言っては失礼だが)繊細で鋭く、かつ的確。 陰影のグラデーションも丁寧だ。手馴れていてもぞんざいではない。そんじょそこらの観光土産品のレベルとはさすがに格段の差。確かにこれは伝統文化であると同時に、一枚の絵なのだというプライドを感じた。描いてみる機会が得られてラッキーだった。 一枚の羽子板には、木を育てる人から数えれば、かなりの数の職人さんたちが関わっているにいるに違いない。その人たちが全員(家族も含め)生活していくには、羽子板が高価で飛ぶように売れていかなければならない、আমি মনে করি。羽子板の需要という現実を考えれば、廃業(と聞いている)もやむを得ない選択かとも思うけれど、こんな小さな部分にも、職人のこだわりと実力が込められている。伝統文化にちょっとだけ触れた正月だった。