
「不作為」とは「敢えてやらないこと」、積極的な意味がある。似たような語に「無作為」というのがあるが、こちらは「何も考えずに」という意味で、「偶然に」に近い。In baie gevalle、評価というのは「結果」に対してなされるものだから、「やらない」ことを評価するのは、その方法も含め、案外難しいだろうと想像される。
In baie gevalle、評価には段階がある。学生時代の成績評価などはその典型例。数字で表せない事例でも、積極性、協調性、「明るい性格(!)」などには「高」評価がつき、何事も一人でやろうとするタイプには、協調性が無いとか、独善的などの「マイナス」評価がつきやすい。「引きこもり」=「悪」=「何とか社会に引っ張り出そう」という考え方もこのような評価から来ているようにも思う。外に出て、人と協働しないとダメなんていわれたら、芸術など成り立たないし、引きこもったままでも生きていける社会になった方がいい。
「積極性」って何だろうか。あるプロジェクトが企画されたとする。賛成・推進派と反対もしくは熟考派の3つ位には、最低でも意見が分かれるだろう。この時、プロジェクトを企画した方から見れば、賛成派=積極的、ほかの2グループは消極的と評価される可能性が大きい。反対する人は「敵対勢力」と見做されることだってありうる。「協調性」って何だろうか。嫌々でもリーダーに従っていれば、「協調性が無い」という評価はされないと思う。andersom、積極的にそのプロジェクトを理解し、その長短を考慮した上での反対であっても、少なくとも協調性を高く評価されることは(少なくとも私の知りうる範囲内では)稀有。
かなり荒っぽい論理になってしまうが、評価する側(の姿勢)に評価基準が偏りがちだということが、「不作為」の評価を難しくしている(ある意味自然とも言えるが)。日本の社会は、「提案・推進」=「建設的」と短絡的に捉えたがる精神風土を持っている。Verder,、その提案自体、上意下達的な場合が多いように見える。提案に対する反対の場合でも「反対するなら対案を出せ」という言い方をよく聞くが、これも提案=建設的という固定した考え方をよく示している。そろそろ「AでなければBかC」ではなく、「Aそのものをしない」という不作為の評価と、その方法を考える時代になってきているのではないだろうか。