
1/3からぼちぼち外に出始めた。今日は郵便局へ行ったついでに、少し遠出してみた。
比較的近い公園で、「水仙まつり」が1/5〜とあったのを見たのでとりあえずそこへ。好天で風もないので、結構な人出だった。水仙は満開近い感じ。快晴続きのせいだろう。

1/3からぼちぼち外に出始めた。今日は郵便局へ行ったついでに、少し遠出してみた。
比較的近い公園で、「水仙まつり」が1/5〜とあったのを見たのでとりあえずそこへ。好天で風もないので、結構な人出だった。水仙は満開近い感じ。快晴続きのせいだろう。

尻から火が出ているのは気づいているが、目の前の(実はどうでもいいような)雑事に鼻を引かれて、尻の火を消さずにいた(まるでヒエロニムス・ボスの絵を実写版で見ているようだ)。
28日の午後8時過ぎ、やっと年賀状にとりかかった。ひと月前から、自宅プリンターより外注が安くてキレイと、もう耳ダコがいくつもできるほど聞かされては、両手両足でロバの耳を塞いで、今日まで過ごして来たのだった。
「今年は猪のように一直線」なんて、脳みそに亀裂が入る。こんな文言は生理的に無理だ。ふと思いついたのが「マンガ仕立て」。いいじゃん。で、なぜか桃太郎の1シーンが浮かんだので、それぞれのセリフも描いてみた。桃太郎「これから鬼の征伐だっ!ついてこい!」背中に桃印吉備団子が入ったリュックを背負っている。ーキジ「もし、鬼が想定以上にいたら、キジダンゴ割り増しだぜ」ー犬「黍団子なんて、そんな子どもの食いもんに興味などねぇ。オニの宝を取ったら、次はキジ鍋だ。最後は桃太郎ごと桃粥にして食ってやるのさ」。実は、こいつは犬のふりした狼なのだが、阿呆な桃太郎は気づいていない。
猪は寝ている。オニ征伐に行かない。腕まくらをしてぐうたらをきめこむ。「行きたい奴だけ行けばイイ。イイ歳をしてそんなの行くか(アホ)」。イイと猪をかけたつもりだった。
トコロがどっこい、おとぎ話の桃太郎には猪など出てこないのだ。「猿」の間違いだ。右か左の脳が「三蔵法師」の話と取り違えたらしい(いま私の頭の中でお互いに責任をなすり合っている)。年賀状のストーリーとしてはまあ滅多にない(から面白い)だろうと思いつつ、果たして年賀状として理解可能かどうか、思案中でアル。

「Animal Welfare」って知ってる?「食べられる牛にも、気分良く飼われる権利がある」ってこと。「でも、結局人間に食べられることに変わりはない。そこまでいうなら俺たちを食べなきゃいいじゃないか」、というのが牛の気持だろうが、人間の考えはなかなか複雑だ。
「世界の人(と言ってもセレブに限るのだが)」は、極めて幸福に暮らしていた牛(最も肉と油のバランスが良くなっている)が突然、何故か原因不明の(苦しまない)死を遂げ、(もちろん「屠殺」だが、セレブはそのことは知らないことになっている)その牛(肉)に感謝と哀悼の意を捧げつつ、恋人と二人で、(なぜか最高の職人によって焼かれた)その肉を彼らの美しい唇と歯と舌に運ばざるを得ないという、羨ましいような「宿命」があるらしい。
もちろんジョークである。基本は動物愛護の精神だ。そこから発展して、たとえ食用を目的に養殖されている動物でも、できるだけの尊厳と環境改善の努力を彼らのために為すべきだ、という考え方。無論そのこと自体に反対する理由はない。Tetapi、「ストレスのない状態で飼われた牛、豚、鶏の肉は、そうでないものより一層美味しい」と、私の日本的な耳には聴こえてしまう。Animal Welfare という語自体、建前といえば建前だが、そのおおもとはキリスト教的世界観にあるのだろうと想像はつく。
前回の「国際捕鯨委員会CWEからの日本の脱退」と繋がる話題。日本(政府)はこの「Animal welfare」を、私のような感覚で捉えているのではないかと想像する。相手はキリスト教的「動物愛護」の国内、世界世論に配慮しているのだと考えなければならない。数値的な正確さを言い募れば募るほど、お互いの距離は開いていく。「モリを撃ち込まれたら、痛くて、苦しいだろう?その痛みが分からないのか?」と彼等は考えているのに、鯨の頭数の回復だけを、口を酸っぱくして言っても、最初から平行線だということが解っていないのではないか。まずは、彼らの「Animal welfare」を謙虚に理解してみることが、大切かと思う。