to pašu nevar atkārtot

vakar 18:00 uz augšu

nevar atkārtot vienu un to pašu。Nav tā, ka man būtu garlaicīgi、vienkārši nevar atkārtot。2Tikšu galā līdz nākamajai reizei、3Es vairs neesmu pārliecināts, kad tā ir otrā reize。

Es nevaru darīt "to pašu"、"Līdzīgas lietas" kaut kā var atkārtot (?).。Piemēram, mazgājot traukus。Trauku mazgāšanā katru dienu tiek izmantoti nedaudz atšķirīgi trauki, tāpēc tas ir "līdzīgs", bet ne "viens pats" (lai gan tas izklausās pēc ķibeles、Jūs varat turpināt no。bet、Piemēram, 20 gabali vienas un tās pašas plāksnes、30Nedaudz grūti mazgāt。Baidos, ka kaut kur to nometīšu un salauzīšu、nervozēt。Šķiet, ka "pierast" ir grūti.。

lieki piebilst、Patiesībā "tas pats、Nav tādas lietas kā "tas pats"。Tas ir tikai sajūtu jautājums。(Tātad?) Es domāju, ka tā ir mana (saprāta) problēma、acīmredzot vairāk vai mazāk、Šķiet, ka viss cilvēks ir tāds izveidots (reljefs)。
“Ja padomā par cilvēces vēsturi、Katru dienu meklē pārtiku dienai、Lai pasargātu sevi un savu ģimeni no skarbas vides un ienaidniekiem、Droši vien nebija (nevarēja) atkārtot "to pašu" pat ne mirkli。Tādā ziņā civilizācijas spēks ir ļāvis "atkārtot" vienu un to pašu.、tas ir pavisam nesen。Ja cilvēka (smadzeņu) funkcijās ir iebūvēta "vienkāršā atkārtošana".、Cilvēki var nebūt tik ilgi izdzīvojuši.。

Mūsdienu pasaule pieprasa "pierast pie lietām" (lietām un sabiedrībai)。"Pierast" ir ne tikai pašam cilvēkam、Mazāks slogs sabiedrībai、jo tas ir atzīts par。Man nav labi "pierast", bet es jutos kā nepilngadīga、droši vien tāpēc。
Mūsdienu cilvēki video veidošanu kolektīvi dēvē par radošu (radīšanu)、Paradoksālā kārtā ir、Ilgas pēc "nepazīstamām lietām", kas ir cilvēces "dzimtā pilsēta".、Man šķiet, ka es strādāju neapzināti。

rītdienas Džo

ここのところウォーキングしていないせいか腰がまっすぐ伸びない感じですっかり歩くのが「下手」になってしまった歩けないわけではないがタガの外れかかった木製の人形の腰から上が折れたように、30度くらい前に倒れた格好でガクガク歩くのであるそんなふうにして自宅から約1.5㎞ほどのところにある書店まで行った

話題の本が並んでいるコーナー高齢化社会を反映してか、70、80代向けの本も結構並んでいるペラペラとめくってみると多くが「がんばらない方が長生き(生き生き)する」と語る「老人向け『啓蒙』書」!頑張らない生き方をするためにはこれを読んで頑張りましょうというブラックジョークか

リスキリング(re-skilling学び直し)だのなんだのと、50、60、70代を再戦力化するための「ケイモー」書の類その棚でカバーの文字が180°ひっくり返っている目次を見ると「歳をとったと認識して頑張らず自分らしく生きる」ための方策がずらり(英語など語学の)勉強せよ毎日歩けパソコン使え好奇心持て云々なんのこっちゃ?そんなラジオ体操みたいに他人のリズムに合わせて「自分らしく」生きられると思ってんのか?自分って誰?要するにカバーは変わったが中身はまったく同じものなのだった勝者になれ!常にファイティングポーズを取れ結局はそれしかないのだ

bet、現実はたぶんそれが正しくそして多くの人にはそれが出来ないだけのことなのだ小さくファイティングポーズを取って小さなジャブで満足するか大きく構えてKOされるかのどちらかどっちになろうと「啓蒙書」の人々の知ったこっちゃない彼らこそ勝者になろうと必死にファイティングポーズを取るしかないと信じているからである養老孟司(たけし)さんが書いている「一匹の虫が飛んできた元気だそれ以上なにが必要だと言うのか」99.99%の人には無縁の言葉だがそれもひとつの真実ではあるに違いない

エスキースについて

エスキース1
エスキース2
エスキース3

教室ではエスキースをおススメしているこのエスキースは先日来の「ゼラニウムの構図」のためのものほかにも数枚ある「ゼラニウムの構図」自体も3点ほどある

「エスキース」は「アイデア・スケッチ」と言えば実態に近い要するに作品に取り掛かる前に「どう描くか」を具体的に検討するものモチーフ本体だけでなくその周辺も含めて考える「構成」よりもアイデアを重視するこの段階が「創作」への入口と考えてよい

エスキースをする際に一番大事なことは「描写をしない」こと“描写する脳”と“アイデア脳”とはたぶん異なる部位の脳細胞が働いているに違いない描写するときはアイデアが出ず考えている時は描写は進まないことは皆さんもすでに経験済みだと思う
 それと関連するがエスキースを描いている時間各パーツにかける時間は最大でも1分以内にすること出来れば数秒で描く。tāpēc、大きなスケッチブックではなくメモ帳手帳ほどのサイズが適している上の例で言うと花と鉢の位置と大きさはグルグルッと2つの円で5秒テーブル(実際は木の椅子)の位置と大きさがやく30秒その影が30秒奥の影の斜線が30秒描く時間は全体で1分35秒。tomēr、それぞれのあいだに「考える時間」「アイデアをひねり出す時間」が数分時には数十分もある。1分で一枚を描けという意味ではないので誤解のないようお願いします

エスキースは作品をレベルアップするためには不可欠な作業です。bet、単に描くこと自体を楽しむぶんにはまずは不要でしょう特に淡彩スケッチだけを楽しみにしている人には見聞きすることさえ鬱陶しいことかもしれませんあくまで創作のため作品をレベルアップしたい人だけに必要な作業です
 これは絵画制作上のひとつの「脱皮」であり一度越えたらエスキースを知らなかった自分に戻ることはもう出来ません蝶からさなぎに戻ることはできないのですいつもどこかでエスキース意識が働くようになりますでもまあ、、けっして悪いことでもないしたくさん描いているうちには遅かれ早かれそういう神経が磨かれてくるのですが
bet、それはそれとしてエスキース自体も視覚的に面白いものだと思いませんか?そうだとしたらまさに一石二鳥なんですけどね