

今日は何も手につかない。nevis、病院のことだけで一日が終わってしまいそうだ。ただの「検査」なのだが、慣れてないせいで大きなプレッシャーがかかり、それ以外のことがほぼできない。
絵を描くことができないのはまあ仕方ないとしても、本を読むとか、何かアイデアを考えるとかできそうなものだし、その準備もしてきたのに、どれも手につかない。落ち着かない。
今日は何も手につかない。nevis、病院のことだけで一日が終わってしまいそうだ。ただの「検査」なのだが、慣れてないせいで大きなプレッシャーがかかり、それ以外のことがほぼできない。
絵を描くことができないのはまあ仕方ないとしても、本を読むとか、何かアイデアを考えるとかできそうなものだし、その準備もしてきたのに、どれも手につかない。落ち着かない。
今日は数日ぶりに暖かく、午後三時過ぎにウオーキングに行ってみた。少し急いで歩くと汗をかくほど暖かったせいか、ランニングしている人も何人か見た。介護施設の入所者と施設の職員と思われる人も何人か連れだって歩いていた。
走る人を見ると、わたしは羨ましく思う。休む人は歩くわたしを羨ましく思うかもしれない。寝たきりの人は、休み休み歩く人を羨ましく思うかもしれない。寝たきりの人は不幸かと言えばそんなこともない。人それぞれに価値観が違い、そこに何かを見出せるか見いだせないかが大事なのかもしれない。
という古い童謡があります。覚えている人もきっといるでしょう。―歌を忘れたカナリアは後ろの山に捨てられるんでしょうか、それとも柳の鞭で打たれるんでしょうか。―いえいえそれはなりませぬ。
象牙の舟に銀の櫂(かい。オールのことです。今の人は解かるかしら?)を与え、月夜の海に浮かべれば、カナリアは忘れた歌を思い出すのだそうです(作詞:西條八十)。今は残念ながらWWWFの規制により象牙の売買は禁止されています。それに銀の櫂ではカナリアには重すぎて漕げません、などと理屈を言って作詞のロマンを壊してごめんなさいね。そのうえさらに記憶喪失や脳医学の話をするのは―もうもうなりませぬ。
象牙の舟や銀の櫂、という高価な準備をしてくれなくっても、鳥かごの戸を開けて、自由にしてくれさえすれば、きっとカナリアは歌を思い出すだろうにと、子どもの時分にもそう思いました。
忘れられないのは、父が可愛がっていたカナリアのこと。わたしが可愛がっていた猫が、籠から逃げられないカナリアに爪を立ててしまった朝。父はわたしも猫をも叱りはしませんでしたが、以後二度と生き物を飼うこともありませんでした。小学生だったわたしは、父がカナリアの始末をするのを無言で見ていたはずですが、よく覚えていません。
(売れる)絵を描かない画家、というぶざまな自分を顧みるとき、ふとこのシーンを思い出すことがあります。歌を忘れたカナリアと絵を描かない画家。―一緒に後ろの山に捨てましょか。いえいえそれはなりませぬ。せめて埋めてあげましょう、父のしたように。いえいえそれさえ叶わぬ世でしょうか。