
嫌なものは(わたし自身を含め)誰でも見たくない。その方が(たぶん)精神衛生上も良いような気がする。一方で、「見たくはないが眼を背けてはいけないもの」もあるような気もして、単純に「嫌なものは見ない」と強気になるには、尻のあたりがなんとなくこそばゆい。
見ないで済むものは、個人個人の小さな癖とか趣味とか、だろうか。もし他人のそれであれば、見ても黙っているか肯定するのがよい。余計な口出しは無用である。見たくはないが見るべきもの、それは(おそらく)誰にもたくさんある。たとえば、片づけなくちゃと思いながら、さらにシッチャカメッチャカになっていく自分の部屋。もう見たくない、と思うけれど、そこに暮らしている以上見ないわけにはいかない。自分への幻滅感と、明日か明後日にはやろう、という微かな意志。Ah、暮らしていくってそういうことなんだと、どっと生活感に押しつぶされてシニタクナッテしまう。
大好きなはずの、絵を描くことだってそうなのだ。頼まれて描いているわけでもないのに、絵の具が乾き、その上に埃が被ってくると、「描かなくちゃ」となぜか罪悪感が湧いてくる。あれもあり、これもあったから描く時間がなかったんだ、と自分で自分に弁解すること自体がなんだか寂しい。「なんでこうなるの」と、でも自分を責めるのはやめよう。
「日なたの方を見る」という表現がある。何かに忙しくしていた自分は、その分何か、誰かの助けになっていたはずだ。そこを見ようよ、という視点の転換だ。いい言葉だと思う。そして埃の下から「あれっ?ここにこんないい絵があるじゃない?」と見つけ出し、「なんだ、わたしの絵じゃないか」とにんまりし、「ちょっとここはこのままじゃまずいんじゃないかな」とすこし描き足す。
蛇足だが、政治家にこんな見方をする人が「圧倒的に」多いように感じるが、それは逆だと思う。政治家が、自分や自分のやったことを「日なた」に見るようではおしまいだ。Dan、それを「明るくていい人」と思うようでは、自分の脳みそが干からびかけているのでは、と少しは心配してみた方がよさそうだ。