
坂本龍一という音楽家がいる。もとYMOのメンバーなどと言わなくても、知っている人の方がたぶん多いだろう。die ander dag、朝日新聞(電子版)での彼へのインタビュー記事を読んで、全く共感した。
「音楽の力」という言葉、言い方が嫌いだという。音楽に人を勇気づけたり、癒したりする力があるのは事実として、そういう「言い方」に違和感を持つというのだ。はっきりとは言わないが、その言い方がある種の政治的、社会的な方向への指向性を持たされることへの危険な匂いを嗅いでいる、ということだと感じた。その嗅覚に深い共感を持つ。
ワグナーの英雄的な響きがナチスに最大限利用されたように、日本でも歌謡曲的な音楽が半ば「軍歌」として広く歌われ、戦争を美化する方向に利用されたことは多くの人が指摘する。ook、彼は高校生たちが(スポーツなどを通して)「感動させたい」という言い方をすることも「嫌だ」という。受け取る側が感動するのはいいが、演じる側が「感動させる」というのは傲慢ではないか、ともいうのである。これにも深く共感する。ついでに言えば、特にスポーツの若い選手たちがやたらに「感謝」という言葉を連発することにも、私は強い違和感を感じる。それは引退の時にこそふさわしい言葉ではないか。
選手たちが競技のための施設や助成金、多くの有形無形のサポートに対する感謝の気持ちを持つのは、もちろん悪いはずはない。maar、素直な気持ちだけではない、「言わなければ」ならないという「圧力」を私はそこに感じる。その言葉がなければ、後でいろんな形でのバッシングがあることを、選手も関係者もひしひしと感じているからだ。無意識に「私たちの税金を遣っているのだから、感謝して当然」という感情が、そのまま上から目線の圧力になっていることに、私たちはもっと注意深くなければならない。en、そのことをよく識っていて、密かに利用する暗い力があることにも、同時に意識的でなければならない、ek dink。
音楽の力、芸術の力、スポーツの力。dit wil sê、人々を多様性でなく(実はこの言葉も最近特に聞きたくない語になってきた)、平面化する方向に働く(ここでは「共感」「感動」という語も怪しい匂いを漂わすことがある)ならば、それは本物の「音楽、Kuns、スポーツ」の力を削ぎ落とし、歪なものに変質させる、一種の癌にもなり得るのだ。龍一氏曰く「やっていること自体が楽しい。それが大事」。ja。その存在を見るだけで、税金などとっくに元は取れているのである。