トランプ米大統領が白人至上主義者を、それに反対する人たちと(最初は)同列に「どちらも暴力的だった」と言い放って、閣僚や顧問などの辞任が相次ぎ大きな問題になっている。
白人…側を写した映像を見ると、いわゆるネオ・ナチの旗などがある。ナチスが民族差別を煽って大量のユダヤ人虐殺をしたことは日本の子どもでも知っている。少なくとも英米ではナチズム(および人種差別)は絶対悪で、相手がどうこうと比べる対象ではない。問答無用なのだ。それを「どちらも」と同等に見ていることが自分たちの大統領として(たぶん人間としても)相応しくないと、アメリカのマスコミは激しく批判している。
話は跳ぶが、近日日本の国会では教育勅語を教育の場で使っていいかどうかと問題になった。安倍政権の閣僚の中には、夫婦や兄弟は仲良くしなさいという普遍的な価値観は教育勅語の中にもあり、必ずしも否定すべきではないと述べた者も首相はじめ、少なくない。
ナチス党の幹部にも、今回の白人至上主義者の中にも、夫婦仲良く、兄弟睦まじくすべきだと考えている人は多いだろう。ამ შემთხვევაში、普遍的な価値観は共有できているのだから、民族差別、人種差別主義も必ずしも否定すべきではない、とは英米では(日本のようには)考えない。同じ次元での話ではないからだ。
この考え方の違いは極めて示唆的だ。日本の論理?をずっと先に進めると、善人と悪人の差は殆どなく、むしろ悪人の方に歩があるとさえ言える日本的思想に繋がってくる。いわく、いじめは「いじめられる側にも問題がある」「痴漢される側もそういう服装だから」いじめたり、痴漢する側が「誘われただけであって、彼らこそ本当は被害者なのだ」と。
そんな論理はおかしい。泥棒にも一分の理、どころか泥棒こそ正しい(文学がそこに焦点を当てるのはまた違う価値観からだ。混同してはいけない)なんて。それを堂々という方もいう方だが、それもそうだなと思う方もおかしい。
この程度の頭では結局、教育勅語は名前を変えるだけで復活する。そしてお国のためと騙されて、尊い命を無駄遣いする国民を育てていくことになる。