絵の中の何を見ているのか-2

クリムト「公園」1910

見る人にとって自身が既に獲得しているかたちや色彩のカタログ?とのある程度のズレは興味や好奇心を抱かせズレの内容によって「好き・嫌い」などに分かれていくズレが大きければ時に衝撃となる

このオーバーラップは(意識はされなくても)言葉によっても同時になされている語彙の量はそれなりのハンディとなる例えば「紫」という語を知らなければ眼には見えてもそれを表現として使うことはできない「紫」という語は色の引き出しを開ける鍵(文字通りのキーワード)だからだ

かたちや色を考える時自然再現的なそれらとのズレを工夫することが単独のかたち色の工夫より重要ではないかと考える

 

絵の中の何を見ているのか

浮かぶ男 と Apple

かたちと色は視覚情報の中心だから絵画がそれに工夫と研究を費やすのも当然というのが「常識の罠」

実際人はかたちも色も「そんな気がする」程度にしか見ていないでは何を見ているかというと自分のイメージや記憶つまり自分自身の反映とそれの「ズレ」を見ているのではないかと最近考えている

違和感の無いものは見えないズレが大きくなると感覚が鋭くなって「絵」が見えてくるズレはまた言葉の問題でもあるようだ

 

ズッキーニ

ズッキーニ

ここ数年珍しくもない野菜になったが買ったことがない食べるつもりもなく色に惹かれて買った

このズングリした形にも以前からどこか惹かれるものがあって時おり触ってみたりしていたがやや白けたキュウリ色で買う気にまではならなかった

かたちと色の両方が揃ったところでそのずっしりした量感もあらためて味わえた食べない眼だけで味わう方がどうも美味しそうだから