漁港スケッチは千葉県の最南端野島崎から九十九里まで車で移動しながらスケッチしたときのもの。何回かに分けて、何日もスケッチしていました。それを参考に、あらためて描いてみたものです。場所は和田のあたりだったかな。
夕方だったと思います。もうすぐ日が落ちるという時刻だったかな。動画ではそういう時刻感を表現せず(絵が暗くなってしまうから)、画面本位、色彩本位のスケッチにしました。
漁港スケッチは千葉県の最南端野島崎から九十九里まで車で移動しながらスケッチしたときのもの。何回かに分けて、何日もスケッチしていました。それを参考に、あらためて描いてみたものです。場所は和田のあたりだったかな。
夕方だったと思います。もうすぐ日が落ちるという時刻だったかな。動画ではそういう時刻感を表現せず(絵が暗くなってしまうから)、画面本位、色彩本位のスケッチにしました。
野生動物にとってサボるということは、たぶんぐっと死に近づくことなのに違いない。警戒をサボる、エサ探しをサボる、身体のケアをサボる。どれも死に直結する。サボらなくても捕食者は向こうからやってくる。息を抜く暇がない。
人間は適当にサボることができる(良かった~人間で ^_^)。人間は文明によって、多少はサボっても死なずに済む社会を創ってきた。
「フリーランス」という生き方は、そうした人間社会のなかでは野生的な生き方ということになるだろう。社会という仕組のなかではあるが、多少とも人に頼らない(頼れない)領域を持つ、そんな空間に生きるということ。だからサボれない。「自分だけの自由な時空感」などの”綺麗な表現”につられそうになるが、実は“息を抜く暇のない″、野生動物のような緊張感を常に強いられるという現実を見落としてはならない。
フリーランスになることは確かに一つの選択だが、多くの場合、「そうせざるを得ない」人々だとわたしは強く感じる。ちょっと前の日本では“落伍者”“はみ出し者”あるいは“反抗者”として、時には“排除”の対象者にされかねなかった人々。いまフリーランスが一種カッコ良さげに見えているらしいのは「文化」の力である。はみ出し者も一緒に生きていける時代がずっと続いて欲しい、それを持続する力が欲しい。一方で寛容性のない社会も身近に広がり、それに気づかない人も増えていそうなのが不気味である。

「人物画」と言えば「肖像画」と一瞬思うけれど、風景や室内に複数の人間がいるような絵も「人物画」に入れていいだろう。たとえばピカソの青青の時代の人物画や、バラ色の時代のそれなどは、少なくとも肖像画ではないけれど、主題は同じく「人間」だ。
似せる、似せないも本質的なものではないのかもしれない。これもたとえば藤原隆信筆と伝えられる国宝「伝源頼朝像」など、本人に似ているかどうかの判定など不能だし、「キリストの肖像」なんてのも同様。Но、逆にそこに想像力を働かして片岡珠子「井原西鶴像」などというのもある。絵だけでなく、彫刻もそうだ。そうではあるけれど、まあ一般的に言えば肖像画は「本人に似ている」、人物画は「画中に人間がいることを主題にしている」ということになるだろうか。
そういえば、(日本ではあまり多くないが西欧ではむしろメインな)「歴史画」というジャンルもある。人間が歴史を作っているのだから、歴史画と言われるものの多くが「人物画」だ。多くの人が知っている、ナポレオンが馬にまたがって「アルプスを越えよ」と右手を掲げて指している絵などがそれにあたる。в качестве примечания、わたしはロシアの画家レーピンの「イワン雷帝」などが歴史画としては好きである(上の写真)。
うっかりしていたが、「自画像」というカテゴリーもある。こちらではレンブラントの名前くらいは覚えておこうね。たとえ絵は忘れてしまっても。
人物画が好きか嫌いかはべつとして、興味のない人はいないはずである。多くの学者の研究によると、人間は人の顔を詳しく見るように脳を進化させてきたのだそうだ。微妙な表情一つで感情やさまざまな考えさえ伝える“人間の顔”。教室でも制作に全員苦労しているが、それだけごまかしが利かず(作者自身にとっても)、高い表現技術が求められるということなのだろう。「風景」と「人間」は芸術の2大テーマである。どこをどう考えても結局この二つに関わらざるを得ない。いまさらだが、もう少し素直にこのテーマに向き合ってみようと思う。