石丸康生個展から 石丸康生個展会場ーギャラリーなつか(東京・京橋。18日まで) 作品の部分 石丸康生さんの個展に行ってきた。涼しいと思って出かけたが、台風23号の影響か、意外に蒸し暑かった。石丸氏は相変わらず?お元気で体力モリモリそうだった。相変わらず、というのは展示された作品たちから発するエネルギーが、前回に比べても少しも衰えていなかったから。 いつものように大きめの作品がずらりと並べられていて、一見単純な仕事のようにも見えるが、よく見ると実に繊細で、存分に時間をかけているのがよくわかる。 制作の動機には、第二次大戦時、日本軍の特攻兵器「人間魚雷-回天」の基地であった大津島の存在と、自身の成長期とが深く関わっているという。Но、見る人はそんなことを知る必要はない。ただ素直に作品に対すればよい。 作品から感じるのは「傷」。痛みのイメージとかではなく、傷がそこにあること。あえて暴くように見せつけるのでもなく、あえて隠そうとするのでもなく、そこにある傷を見る。飽くことなく、また淡々とでもなく深く傷そのものに共感(しようと)する。そんな作家の姿勢、視線を感じる。
練習しよう 「駆ける子ども」 荒目の紙に水彩 紙質に合わせた色と筆遣いの練習です。―描けばかならず「うまくできないところ」に出合う。テクニックが未熟なのか、理屈がちゃんと理解できていないのか、集中力がないのかなどなど理由は様々だが、いずれにせよ「うまくできない」ことにぶつかる。 練習すれば誰でも上達する。Если ты заставишь меня、それは無限ではない。ある一定のところで上達は止まり、そこから先は、それを維持するだけでもそこまでの何倍か大変で、やがて体力の低下とともに維持できなくなり、「レベル」は低下する。「一定のところ」の一つは年齢(体力)か、と多くの人は想像するだろう。体力的なことはどんな人も避けて通ることができないから、これは納得がいく。精神的な面も、幾分かは年齢と不離不即の関係にあるだろうと考えるのも不自然ではない。 Но、何歳くらいで上達が止まるかという質問には、実は意味がない。80歳から始めても、情熱があるうちはどんどん上達する。一方20歳で始めても4、5年経つと上達が止まる。少なくとも、目に見える上達の程度というのはそんなものだろうと思う。つまり技術的なレベルというのはある程度決まっていて、早かろうが遅かろうが、とにかくそこがゴール。そういう意味では、なるべく早く到達する方がそのあとの時間が長く使えます、って感じでしょうか。 「うまくできないところがある」。それをどう乗り越えるかは経験によって変わってくる。体力と違って、経験は増える一方だから(物忘れもあるが)、体力の低下を経験智で補なうどころか、それによってもっと発展的な技術を生み出せる可能性は、けっして小さくはない。 要するに、どんな場合でも、がっかりすることなどないってこと。練習することで誰でも「経験智が増す」。「できないことがある」から、経験智が一層深く豊かにもなれる、ということなんですよね。―練習しましょうね、皆さん。
岡本太郎氏のこと 「ヴィーナス降臨」 水彩+アクリル 教室の方の一人がここ数年、埴輪をテーマに制作している。彼の故郷には埴輪と深い関係のある遺跡が多数あり、次第にそれらを描きたくなってきたらしい。 小学生の頃、わたしの実家の畑からもたくさん縄文土器が出てきて、それを母が「絵に描いてみたら?」とか、わたしに持ってきてくれたことを思いだす。そんなこともあって、彼のモチーフを使って何点か描いてみた。そしたら、「あれっ?これ、もしかしたら岡本太郎の「太陽の塔」のモチーフ(出発点)なんじゃない?」と思ってしまった。 ご存知の方は多いと思うけれど、太郎氏は「縄文文化」に対する深い敬意と知識は半端じゃなかを持っていた。日本の縄文文化だけでなく、古代の文化に対する興味、造形の深さは至る所に表現されているが、この通称「縄文のヴィーナス」の造形、手法はまさに太陽の塔の造形に極めて近い。特定のモデルは存在せず、それ自体がひとつの思想である「世界樹」のアイデアを表現したものだと本人は語っているが、発言と造形とは同じものではない。 フランスに暮した青年時代、西欧文化の海の中で、自身のアイデンティティを確認する作業に必死だったはず。「縄文ヴィーナス」は彼の中で次第に大きな存在になっていったのではないか、と想像するのにも違和感はない。 幸運にもわたしは岡本太郎氏と二度お会いし、二度ともほんの短い間だが言葉を交わすことができた。一度目はまったくの偶然。わたしがある外国の画家を、たしか神田にあった国際交流センター(正式名称確認していません)に日本滞在の相談で同行した時、たまたまそこに用事があったらしい太郎氏が突然現れ、話しかけてきたのでした。他に人もいなかったので、比較的ゆっくりお話を伺ったのですが、わたしが舞い上がってしまったのか、どんな話をしたのかは具体的によく覚えていないんですよね。 そのつぎの、日本での個展の時は、図録にサインすることを嫌がっていた太郎氏に、わたしは無理にお願いしサインしてもらいました。その時、太郎氏が(ただのサインを有難がるなんて)「理解できないね」とフランス語でぶつぶつ独り言を言ったのをよく覚えています。