こいつらをどうしよう?

まだ12月だぜ

アトリエ内の植物がなんだか変に元気になってきた先月末朝夕の気温が下がり始めたので仕方なく外からアトリエに入れた寒さに滅法弱いやつらホニャホニャと力無く伸ばしていた枝もバチバチ切ってサイズを縮めて文句は認めない

当然だがアトリエは熱帯植物園じゃない温度一定など出来るはずもないし制作の邪魔になれば寒くても隅っこに移動する私は暑がりだから暖房もしょっちゅう切るさすがに飯(水)抜きでは可哀想だから水やりだけは土の乾き具合と植物の顔を見て「どうする?どのくらい欲しい?」と聞いてやる欲しいという量の70%くらい葉っぱの面積それぞれの実家の気候鉢の大きさ(100%私の都合なのだが)は一応按配し必要量を1日おきぜいたくなどさせない

なのになぜ?なぜかやたら元気がいいあちこちから新しい芽や葉なんぞ出しやがってこれからが本格的な冬だと解ってんのか?植物だって確か80%以上ゲノムが人間と共通しているはずだぞどうすんだおめえたち俺は責任持たねえぞてめえの新しい芽なんかに

風景

公園から (水彩)

木の肌を見ていたコケのようなものが木肌についているそれがなんだか斑点のようだ向こうの木には陽が当たり少しだけすべっとした手ざわり感樹種が異なるから樹形も全然違う

足元に影が伸びてくるよく見ると枯葉の一枚一枚もとてもきれいだそこにも一つの完結した世界があるのをはっきりと感じるきれいなものをきれいなままに描きたいと思えばきれいさだけを抜き取る以外にない。Если ты заставишь меня、どうやって?

そうだきれいな風景があるのではないのだったそれだけを見ていても本当は何も解らない「見るべきものは自分自分の中にその風景がある」のだった自分で言っといて忘れるなんて…その程度の自分だなあ

風景

公園からーEvergreen (水彩)

風景ー美しい自然環境や人間と自然の織りなす風土歴史的環境などを描くものそんな風に多くの人は思っているし私も長くそんな風に思ってきた

絵というのはどんなものを描いても自画像だという言い方があるもう少し私流に言いかえればどんなものを見てもそこにあるのは自分の投影だということ寂しい人にはどんなものも寂しく見え寂しいものしか見えてこない

美しい風景があるのではなく美しさを感じる心がそこにあるということだろう絵というものはきっとそうやってできているものだ