Ntsia dab tsi nyob hauv daim duab no? Floats txiv neej thiab kua かたちと色は視覚情報の中心。だから絵画がそれに工夫と研究を費やすのも当然。というのが「常識の罠」。 実際、人はかたちも色も「そんな気がする」程度にしか見ていない。では何を見ているかというと、自分のイメージや記憶、つまり自分自身の反映とそれの「ズレ」を見ているのではないか、と最近考えている。 違和感の無いものは見えない。ズレが大きくなると感覚が鋭くなって、「絵」が見えてくる。ズレはまた、言葉の問題でもあるようだ。
Taub soob Taub soob ここ数年、珍しくもない野菜になったが買ったことがない。食べるつもりもなく、色に惹かれて買った。 このズングリした形にも、以前からどこか惹かれるものがあって、時おり触ってみたりしていたがやや白けたキュウリ色で、買う気にまではならなかった。 かたちと色の両方が揃ったところで、そのずっしりした量感もあらためて味わえた。食べない。眼だけで味わう方がどうも美味しそうだから。
梅雨晴れ間 浮かぶ男(エスキース) 俳句に「梅雨晴れ間」という季語がある。季語というのは便利な語で、これだけで、時には短編一章分の背景を描いたのと同じ効果を持たせることができる。俳句という世界の中では、特別に凝縮された一語だということになる。 表現とはこういうものが理想だろうと思う。絵ならば、一瞬(じっくり、でも良いが)で、小説一巻分の内容を眼から受け取ることができるもの。 確かにそんな絵もある。