Zoo li ib tug neeg kawm ntawv qib high school kawm. / Thiab kuv xav mus,

Guitar txiv neej (qhov) ib guiter neeg uas ua ntawv(ib feem)Watercolor 2012

時々だがこのブログにもコメントが来る。私はそれを無視しているわけではないが、公表は殆どしていない。Li ntawd,、コメントを下さった方から見れば、ほぼ完全な黙殺と感じても不思議はない。

Kuv tau txais ib co lus rau cov blog no tej zaum. Ntawm cours kuv twb nyeem tag nrho, tab sis kuv tsis qhib rau lub Web site. Li ntawd, Nws yog ib qho yooj yim uas koj xav tias koj coments puas tau disregarded.

コメントの多くは私の知り合いだからそれでもまあいいが、時々外国人と思われる方からのコメントについては、ちょっと考える。公表しないまでも、読んでくれているのかな?くらいの反応を返せないかなと。

Feem ntau nws yog Japanese, tiam sis muaj qee leej neeg uas tej zaum yuav yog foreigners kuv twv. Cas kuv yuav xav teb lus rau lawv yam tsis qhib rau pej xeem. Tab sis npog, Ua li cas?

英語で書けばいい。そうは思ったのだが、辞書を引きひき、文法書をなまかじりしながら書くのではどうせ通じず、無意味だと思っていた(じつは今も)。Tab sis npog、多少意味不明瞭でも何とか気持ちだけは伝えたいと、最近思うようになってきた。自分の英語の恥ずかしさを隠したい気持ちとの葛藤はあるが、それが現実なのだから仕方ないと、も思う。

Li ntawd, kuv xav sau kuv cov blog nyob tau li raws li kuv tau ua lus Askiv, Kuv tsis zoo nyob althogh.

というわけで、(時々かも知れないが)ヘタな英文(のつもり?)も付けてみることにした。英語ご堪能の方、より良い英語になるようご指摘下さい。お願い致します。

Kuv vam tias koj txaus siab rau nws nrog kuv ntawm no. 2012 / 2 / 24

Lub neej yav tom ntej cov thoob khib nyiab

Shimokita hotch ntau salmon watercolor 2012

ホッチャレとは「捨ててしまえ」という意味だろう。放っちゃえ、という音に似ていると勝手に考えている。産卵後の鮭のことだ。

産卵は、鮭にとって死と引き換えの大事業だ。産卵の成功は自分にとって確実な死をもたらすというジレンマを、鮭は一顧だにしない。凄いことだが、それ以前に物理的なエネルギーの消耗度も、私の想像力などとても及ばないレベルであるに違いない。

産卵するといわゆるサーモンピンクの肉色は急激に白っぽくなり、肉も脂気の無いパサパサになる。魚特有のぬるぬるした皮膚も一気にぬめりが無くなってしまう。人も大きなショックを受けると一夜にして髪の毛が真っ白になることがあると聞いた記憶があるが、それに近い状態なのだろうか?しかもすべての鮭が確実にそうなるのだ。もちろんそんな鮭などもう誰も食べはしない(一度だけ安い鮭を車で売りに来た業者がいた。近所の人が安いというのを聞いて、私はピンときた。あとで見せてもらったら案の定、知らない人をごまかせる程度のホッチャレだった)。それを食べるのは川のカニや水生昆虫の類。そうやって鮭の体はリサイクルされていくため、大量の鮭が死んでも、それで川が汚染されるということはない。つまり鮭の死体はゴミではないのだ。

昨日・今日と、父が何度か危険な状態に陥ったらしい。今日もいよいよかと思わせる電話が何度か弟から入った。夕方になって一応安定したようだが、予断を許さない。

Tsis tas li ntawd,、兄の私は暢気なもので、今日も大学からの引っ越し準備に追われていた。今日現在で大学にはほぼ600枚の私の作品が片付けのために集められている。水彩やスケッチの類を含めたら膨大な点数になる。頭痛のする量だが、それでもこれまで引越しのたびにかなりの量の作品を処分した残りである。Tab sis npog、現存作品を見て、更に残すに値するかどうかは、はなはだ心もとない。もしかすると、これらは既にゴミなのかも知れない。

「人は死ねばゴミになる」という本があった。灰ではなく、ゴミと言うのであるから衝撃的なタイトルだ(読んだ記憶はあるが、中身は全く覚えていない)が、このあたりになると「ゴミ」の定義がそろそろ問題になってくる。

父が亡くなっても、それをゴミだとは、私は思わない。Tab sis npog、鮭のようにリサイクルされずに、燃料コストをかけて焼却するという点だけに注目すれば、ゴミのように熱エネルギーさえ利用できないヒトの死体はゴミ以下である、という言い方もできよう。ましてや、残す価値さえない絵を作り出す私は、更にそれ以下の存在かも知れない。

ヒトは自分たちが動物の中では最上位だと、近年(人類史的に見て)とみに驕り始めているように感じる。ヒト以外の動物は殆どゴミを出さないから、結果的に最上位はゴミを出す量で決まったかにも見える。人間は生きて行くうえで絶えずゴミを作り出さずにはおかない、いわば地球の天邪鬼(あまのじゃく)なのである。

鮭の死は清々しい。ヒトの死、人間の死も、かくありたいと思う、ホッチャレの姿だった。   2012/2/19 日曜日

Txog rau thaum xaus ntawm hom kawm

 

Rooj zaum ntev liab qab F8 mixed media

大学での最後のヌード制作が今週で終了。十数年間にわたり、たくさんのモデルの方にお世話になりました。心からお礼を申し上げます。受講者の方々も実に熱心に描いて下さった。皆さんにも心からお礼を申し上げます。一生に一度しかない、かけがえのない時間を共に過ごさせていただきました。

Tseem、多くの方に引き続き私の指導を受けたいとの希望を頂き、ありがたく感じております。大学のような整った環境は外では得難く、環境的な面で今後はいささか苦労するだろうと思いますが、ある面ではもっと率直に自分の考えを推し進めていけるという期待も持っています。

絵画というものが指導されるべきものかどうかの議論は別にして、受講されてきた方々が何を望んでいるのか、それに対して私がどう考えてきたか、これからどうしようというのかを簡単に述べておきたいと思います。実際は私自身の中に迷いも不確かな部分もあり、今ここで断定的に述べたとしても、より良いと思う方向へ転換していくことは幾らでもありうることだと思って読んで下さるようお願いいたします。

20年にわたって絵画講座を担当しましたが、初めは全くの手探り状態。私も講師などの経験は無く、ただ自分自身の、絵画観をそのままぶつけるだけでした。といえばメチャクチャな印象ですが、なまの絵描きの卵が思い惑い、右往左往するさまをまじかに眺める機会など滅多に無いことだという観点でみれば、ある意味貴重な経験を提供したかも知れません。でもまあ、講師としては掲げるビジョンも不明確で、まずは落第だったでしょう。

「絵画の技術・知識」については未消化ながら、出来るだけ伝えるように心がけてきたつもりです。いかに趣味であろうと、絵画の材料はそれぞれ物理的特性を持った実物であり、それを活かさなければ不必要な労力と無駄なお金をつぎこむことになるばかりでなく、作品自体をもより惨めな状態に貶める結果になってしまいます。そのうえ古今の天才達が作り上げてきた、絵画という技術的積み重ねの歴史そのものをも否定してしまいかねません。

大学の講座ですから、単にうまく描ければいいというのでは少し寂しいと思いました。寧ろうまく描けなくてもいいから、技術の習得を通して芸術に魅入られ、時には芸術の犠牲になっていった人々への想いや、造形表現への理解を深めることができたら、教養としても自らを豊かにすることになるのではないか。それが私の「技術指導」の目的の半分でした。具体的に言えば「模写」「古典技法」などがそれに当たります。「絵画の歴史」的に言えば模写は絵画の勉強そのものと言っても、あながち見当違いではないのです。模写ばかりのクラスを作っても良かったなと今でも思っています。一般の「美術史」のようなものは私の能力を超えており、あくまで技術の範囲にとどまってきたつもりです。

受講者の皆さんにとって、「少しは上手く描けるようになりたい」「他人に自慢できるような絵を描けるようになりたい」という欲求は当然のことです。ここは「絵画講座」であって「美術史」講座ではありません。制作上の具体的な技術指導をするのですから、それを求めて当然です。いろんなケースを想定し、最も安易で、最も効率的な方法を私なりにいろいろ考案しました。「1.2.3ステップ法」(油彩)「明暗重視による構成」(水彩)などがそれに当たります。技術指導の目的の半分以上はこのことに費やしています。

Tab sis npog、満足のいく結果を得られた人はたぶん少数でしょう(実際にはすべての人がレベルアップしています。でも結果が希望のスピードについていけるはずはありません)。程度の差こそあれ、技術の習得には最低限の時間的、経済的コストがかかります。頭で理解できるようには体がついていかない場合もあったでしょう。若い頃より余計に時間が必要ですが、現実は厳しい面があります。

これからも基本的な考え方は変わりません。これまでの方法論が間違っているとも考えていません。それでも「写生的な絵」への直接的な技術指導から「絵画的な」絵へ、今よりさらに軸足を移してもらおうとは思っています。「写生的な絵」を否定することなど誰もできません。Tab sis npog、絵とは写生的なものだけでない、もっと大きく、広く、深い楽しみを持ったものです。そしてその中に自分自身が居ることが何より重要なことだと思っています。絵画としての自立性を保ちながら(単なる独りよがりを越えて)、それぞれの人生の結晶を絵画という形でも残せるようにしたい、そのお手伝いになればと考えています。

「ヘタでもいい」と言えるのは結果であって前提ではないと、私は考えています。それぞれ、生きた証として傑作の一枚を残す(傑作でなくては残らないのです!)。それを目標にしていきたいと思っています。   2012/2/18