Pertemuan sketsa camar biru

駅前午前10時スケッチ会スタート
野田市内終了直前14時頃

青いカモメの絵画教室では自由参加で千葉県野田市でスケッチ会をしました参加者は20名風もなく晴れて気持の良い日和(午前中はひなたでは少し暑いほど)。

野田市といえば醤油の町キッコーマンの企業城下町ですこれを描かないと野田市を描いた気持になりません。Tetapi、前半は市の観光名所的なところに目を奪われてつい歴史的な建物の方に行ってしまいましたお昼は現在は市民会館になっているキッコーマンの創業一家の旧宅で各自の弁当を食べた個人の居宅としてはとんでもない広さと造りで往時の豪勢を感じられたのは良かった

自分としては今回はカモメマンになってスケッチ会のビデオを作ろうと思っていたがスケッチ開始と同時に全員がパアッと散ってしまったのでいきなり目標達成絶望的という状況になってしまった誰がどこにいるか全然分からない三脚を持っていったのでそれをセットすれば自分のスケッチビデオを撮影することは可能だったがそこまで腰を据えて描きたい場所を見つけることが出来なかった

午後になって何の成果もないとちょっと寂しいかなとめぼしいところを漁り始めたそれが下のスケッチこの1枚はとりあえず今日のベスト。Oh sayang、どこでもそうだが初めて行っていきなり良いスケッチを望む方が虫が良すぎるというもの失敗と反省を繰り返ししつつ、2度3度とでかけてやっと描くべきモノが向こうから見えるようになってくるものだ今回も事前の下調べがあったからたとえ満足な成果に結びつかなくてもスケッチを通して一つのイメージを掴むことができた今回はこれで十分これを繰り返すことが大事なんです

Pameran solo Shinsuke Fujisawa②:dia sebagai pelukis

①個展案内状地図まで手描きすることも多い
②四角の画面でないからこそ視覚も躍動する

 

③紙を切る前に色を塗っているそこがすごいところ

先日紹介した「藤澤伸介個展」への追加前回のブログでは「画家としての藤沢伸介」にはスペースの都合で触れなかったがわたしだけでなく多くの絵を描く人にとって示唆に富むと思い以前からそのことについて書く必要を感じていた

①彼の個展案内状はいつも手描きふうだ地図も手描きであることの方が多いたくさんの画家からたくさんの個展案内状を頂くが描くのが仕事であり描くのが何より好きなはずの画家たちからのこのようなものはほとんどない(わたしがする場合も含めて)「絵を描くのが好きだよ楽しいよ」と案内状で最も大切な内容をこれ一枚できっちり示している読むのではなく見る案内状でありまず第一歩からして絵画的だ

②絵はキャンバスに描くものと思いこんでいる人はさすがにもういないだろうが浜辺の砂に描いた絵だって空中に指先で描いた絵だって絵なのだからこれは当然過ぎるくらい歴然とした「絵画」形式。Tetapi、そういう理屈は置いといてこの一見「子どもの切り紙」ふうの「見せ方」がじつは彼の隠された自信タダ者じゃないとわたしは感じる「現代絵画」はよく解らないと多くの画家や評論家たちでさえ内心は感じていると思うけれどこの簡潔な表現そのものがまさにそれではないだろうか画廊を出て一歩街へ出てみるとそれがわかる

③(文才があれば)この絵一枚で一片の小説が書けるハズここには彼の作家としてのこれまでの人生が(軽々しく言ってはいけない言葉だと思うけど)詰まっている中央のカエルに描かれた色や線はカエルのかたちにカッティングされる前に施されている。Dengan kata lain、カエルのかたちになるかどうかすら分からない時点で塗られた色線だそれを最終的にカッティングしてこんなかたちに「なりました」って偶然と必然を一瞬で融合させるその凄さがわたしの想像を超えるんですそしてそれこそ「絵というもの」だとわたしの胸は震えるんです

藤澤伸介展作家と道具の深~い関係

個展会場から
出品作品から2つの紙の切り方を見る
出品作品からかたちをなぞる「切り絵」ではなく切ることと描くことが融合する

包丁を持つと人格が変わるとかハンドルを持つ(運転する)と性格が変わるということは冗談半分の話として時々口の端に登ることもある。Tetapi、わたしたちは常に自分が主体(上位)であり自己の意志のもとにモノや手段(下位)を遣っていると教育されてしまったからせいぜい笑い話レベル程度以上には扱われない

けれど子どもの頃ハサミを持ったら何でもチョキチョキ切りたくなったりシャベルを持てばそこらじゅうを穴ぼこだらけにした経験は誰にでもあるのではないだろうか切りたくなったからハサミを持ち出したのではなくシャベルを持ったから(用もない)穴を掘りたくなったのではなかっただろうか

アーテイスト(こういう呼び方は好きではないが)の多くはそういった子ども時代のハサミやシャベルを一生涯手放さない人々のことでもある一見ただの道具でも年月を経てそれに習熟し腕を磨き上げればそれらはとんでもない武器に変身するというより本来の姿を現してくるそれが藤澤さんのカッターだ

あまりにも使いこんでいるためにごく自然に彼自身がカッターになりきっているこんなふうにカットしようと考えているのではなく気づけばもう切っていたそんな感覚そうでなければ無駄のない鋭い「かたち」など生まれ得ない極めて数学的な線でありながらどこかに子どものような脱線の遊びを含んだカッティング彼はもともと彫刻家だが木を削る時には鑿(のみ)そのものとなり時には粘土を付ける箆(へら)にもなる画家でもあり時どき筆になるCutter(切る人)でもあり詩人のときは可愛い一本の小枝にもなるフツーのようだが普通ではない(下北沢ギャラリーHANA)

※「切り絵」ではなく「切り紙」であることに留意してくださいね