消えていく絵

「海のたたかい」  水彩、Mem。A2コピー用紙

「こんなの描いてどうすんの?」「売れるわけでもないし」「気持ち悪いだけ」。画家のなかにもそう言う人がいそうな気がする。Tab sis npog、画家でない、大多数の人々にはそう言う人の割合が(逆であってほしいけれど)もっと高い、と想像する。
 こんな絵を描いていいのは小学生までだ、と無意識に一種の線引きをしているのが “常識” という分厚い壁。その一線を越えたときの、世間の「見えない、無言の」バッシングはとても厳しく、執拗だ。

わたし自身、コピー用紙に水彩絵の具を塗っている段階では、こんな絵を描こうとは微塵も考えていなかった。適当に赤を配置し、一部を筆でちょんちょんとつついているうちに、なんだか蟹に見えてきた。そしたら、右の色がウツボの色みたいに見えたからウツボを描いてしまった、というだけのこと。そのあと少し色を足したが、ほとんどは最初に塗った色のまま。

こういう絵を発表する場はわたしにはない(たまたまこのブログがあるから見せた)。こっそり誰の目にも触れられず、いずれどこかに消えてしまう運命を背負った絵だ。Tab sis npog、これはわたしが描いたほかのすべての絵とどこも違わない、オリジナルの絵であることは事実。

ある絵には発表の場があり、この絵には発表の場が無い。その差はどこからくるか、といえばわたしの中の偏見、あるいは“常識” から。自分で自分を囲っている。ひとつは経験上、発表しないことがさまざまなストレスから自分を護ることになるから。ひとつは、発表しても無駄だから。無駄というのは、昨日の記事に書いたことに近いが、「目的を持てない」ということ。
 それでも描いている時間は夢中になっていた。子どもの頃(まさに小学生の頃だ)なら、これを友達に見せ、凄い!それなら、オレは恐竜の戦いを描くぞ!という強い共感を得られたに違いない。今はそういう反応への期待感がない、それを「無駄」と感じているってこと。「描いている時間」そのものを無駄といっているわけではない。
 多くの子どもたちの絵は、子ども自身が成長する中で、そうやって自ら消えていく。