
「影を落とす」という言葉がある。文字で書くとき、「陰」は遣わない。「陰」は日向(ひなた)に対して、日の当たらない側を指す語で、そもそもかたちを持っていない。間接的にしか視覚化できないのだから“落ちようがない”。
Luag tes、「影」は光に照らされた物体が、( 陰の側に)そのかたちを視覚的に“投影された”もの、文字通り「投げだされた=落ちた」ものである。時期、時刻によってかたちも変わる。シャドウとシェイドの相違だ。
「(戦争が)人生に影を落とす」というような言い方は、両方の“感じ”を持った比喩だが、現実問題として今度のウクライナ戦争では、ウクライナの人々はもちろん、兵として戦争に駆り出されたロシアの一般人、その家族はどんな気持だろうとも思う。YouTubeなどをみると、ウクライナへの共感は解るとしても、ロシア兵をまるで“虫けら以下”ででもあるかのように扱っているものが少なくない。かつての戦争で農村から招集された多くの日本兵がそうであったように、彼ら一人一人が皆ウクライナ人を殺そうと思って銃を取ったわけではないだろう。ブチャ等での虐殺などは見過ごせないが、そうした見方もまた、戦争が私たちの心にも影を落としているからなのだろう。
「健康」をはじめ、あらゆるものが私たちの人生に影を落とす。それとは気づかないうちに、あるいは気づきながらも日々の行動をそれらに掣肘(せいちゅう)されていたりする。どうにもならないこともあれば、気づくことで変えられることもあるだろう。立ち止まり、自分の影を見ることも時には必要かもしれない。