「嫌なものは見たくない」けど

無題 (CG)

嫌なものは(わたし自身を含め)誰でも見たくない。その方が(たぶん)精神衛生上も良いような気がする。Rau lwm cov tes、「見たくはないが眼を背けてはいけないもの」もあるような気もして、単純に「嫌なものは見ない」と強気になるには、尻のあたりがなんとなくこそばゆい。

見ないで済むものは、個人個人の小さな癖とか趣味とか、だろうか。もし他人のそれであれば、見ても黙っているか肯定するのがよい。余計な口出しは無用である。見たくはないが見るべきもの、それは(おそらく)誰にもたくさんある。たとえば、片づけなくちゃと思いながら、さらにシッチャカメッチャカになっていく自分の部屋。もう見たくない、と思うけれど、そこに暮らしている以上見ないわけにはいかない。自分への幻滅感と、明日か明後日にはやろう、という微かな意志。Muaj、暮らしていくってそういうことなんだと、どっと生活感に押しつぶされてシニタクナッテしまう。

大好きなはずの、絵を描くことだってそうなのだ。頼まれて描いているわけでもないのに、絵の具が乾き、その上に埃が被ってくると、「描かなくちゃ」となぜか罪悪感が湧いてくる。あれもあり、これもあったから描く時間がなかったんだ、と自分で自分に弁解すること自体がなんだか寂しい。「なんでこうなるの」と、でも自分を責めるのはやめよう。

「日なたの方を見る」という表現がある。何かに忙しくしていた自分は、その分何か、誰かの助けになっていたはずだ。そこを見ようよ、という視点の転換だ。いい言葉だと思う。そして埃の下から「あれっ?ここにこんないい絵があるじゃない?」と見つけ出し、「なんだ、わたしの絵じゃないか」とにんまりし、「ちょっとここはこのままじゃまずいんじゃないかな」とすこし描き足す。

蛇足だが、政治家にこんな見方をする人が「圧倒的に」多いように感じるが、それは逆だと思う。政治家が、自分や自分のやったことを「日なた」に見るようではおしまいだ。Thiab、それを「明るくていい人」と思うようでは、自分の脳みそが干からびかけているのでは、と少しは心配してみた方がよさそうだ。

Luam tawm los ntawm

Takashi

Takashi tus kheej blog。Yog tsis yog hais txog cov duab、Cas kuv xav txog txhua hnub、Xav tias nws、Kuv sau xijpeem los mloog。No blog yog tus thib peb tiam。Nws tau ntau tshaj 20 xyoo txij thaum pib。 2023Txij lub ib hlis ntuj 1 ntawm lub xyoo、Rau lub sij hawm tau, kuv txiav txim siab sau tsuas khib hnub。Kuv yuav xav txog cov kev taw qhia yav tom ntej thiab lwm yam。

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