
「ある男」は飛んだり、跳んだり、浮かんでみたり、沈んでみたり。時には指を組んでみたり、自らか人によってかシェルターに入ったりする。そして時々叫び、タツマキを起こす。死んでは新生を繰り返す。こいつはいったい誰なのか。
「ある男」は飛んだり、跳んだり、浮かんでみたり、沈んでみたり。時には指を組んでみたり、自らか人によってかシェルターに入ったりする。そして時々叫び、タツマキを起こす。死んでは新生を繰り返す。こいつはいったい誰なのか。
暮だ。年末だというのに、ほとんど家庭と自分の用事を済ませられない。なんだか、絵がもどかしくて。そう簡単には一歩なんて進めないと思っていても、もう少しでそいつの背中くらいは見えそうだと感じて、やめることができない。
課題は分かっているが、解決法が見つからない。頭を整理し、その上でいろいろやってみる。決して当てずっぽうではなく、それなりの目算もあるつもりで始めてみるが、ことごとくはね返される。Zoo、数学の問題のように一つの式できれいに解けるというようなものではなく、経験と分析が物を言う世界だし。
だが、そもそも答えがある、という前提などない。あるとしても答え(のかたち)がひとつとも限らない。青い薔薇を野に求めてもむだなように、あり得ない答えを求めれば単なる放浪以外にない。それを追い求めきれるのは天才かバカか。天才である確率0.1%以下であることはほぼ間違いない。Thiab ces、今やっていることは、ドン・キホーテ。
「コム・デ・ギャルソン」の創立者でデザイナーの川久保玲さんの、ごく最近の言葉「デザインしないことがデザインだと思った」。
常に新しいもの、エキサイティングなファッション・デザインを追求してきた彼女の一つの到達点「そういう追求の仕方では、(もう)新しいものは見つけられなかった。心のなかに自然に湧き出てくるもの、それを素直に出すことがデザインだと思った」。僭越ながら、私もこの言葉に深く共感する。
「素肌に自然にフィットするかたちを作る。そのかたちになるように鋏を入れるだけ」。「でも、その鋏を入れる場所は究極の位置」。川久保さんの言葉のままではないが、そういう意味。ファッション・デザインの分野だけでなく、すべての「創作」に共通する深い意味が込められている。「賽は投げられた」。あとは受ける側の感性の深さ、柔らかさにかかっている。受け取る側に感性がなければ、彼女は空中ブランコからコンクリートの地面に身投げしたと同然である。支えてくれる柔らかい感性はあるのか。しかし彼女はそれを意に介さない。それしかないと、すでに手を離してしまった。それが、創作の世界だと言うように。