Dies suffragii pro Tokyo gubernatoriali electione est etiam "dies cum cogitare desinis".

"Non est solliciti immemores injucunda" adipiscing faucibus

Hodie dies suffragatur pro electione gubernatori Tokyo.。Prima suffragatio altior esse videtur quam ultimo tempore.。Hoc etiam significat suffragationem rate in die inferiorem fore.、Primum, admodum pauci esse debent qui in hoc calore exire non possunt.。Cur electronice suffragium ferre non possum?、Hodiernae quaestiones Iaponiae etiam ibi apparent.。

Ultima Veneris、Ego porticus a Ginza ad Aoyamam appuli.。Eum censuit orationem pro electione Tokyo gubernatoriali in Ginza prolatam.、Ego iustus ibi stetit et custodiebant。Quibus implicari、"Quaeso ne in via negotiationis" dixit alta voce.、Multum transeuntes ad orationem suam de industria delegit.、Nullo modo est non in via。

Quaedam factiones politicae ipsum systema comitiale deridunt.、Nonnulli singuli quasi per consuetudinem currunt candidati.、Hoc tempore, incumbens + regens factionis VS oppositionis candidatus、Dicitur popularem advenam incidisse.、Praesent sit amet posuere lacus.。Est parasitorum coetus occulte ibi cibum quaerit (nunc palam、Manet tamen eadem compositio processus.。Nescio an non mutet vel si eam mutare nolim.、Veram sententiam suffragii auguror esse quod de re aliqua cogitare nolunt.。no、Forsitan est propter habitus instrumentorum communicationis socialis.。

Non praecipio、Suus 'non iustus fortuita res、Id dissimulare nolo, sed actionem accipere nolo.、Item pro suffragio。Is vultus amo ut。in、In fine nihil mutat。Nonnulli sentiunt hoc esse `tutum et securum'.。Etsi、Quia mundus numquam desinit、Nisi intentio positiva sit non mutandi.、una sabbatorum sero、Naturale est ut duas septimanas post erimus.。Est effectus cogitandi desinendi.。
utique、Non puto satis esse fluere cum fluxu.、Si finis est sicut quaedam mors cerebri, tunc、Non possum facere quidquam, etiam si quis fecerit corpori meo.。Estne bene? Etiam si quaeris、Ego coniecto non vis cogitare de illo。

絵を描くひとびと

「デンドロビウム」 水彩

6月1日埼玉県浦和市にある県立近代美術館で第72回埼玉県展を見てきた土曜日だったこともあり出品者も含め案外大勢の人が見に来ていた学校帰りの高校生(たぶん出品者だ)や多くの高齢者が目立った半面、20代~50代くらいの人はとても少ないそれがたぶん今の社会状況を示しているんでしょう

審査にかかる出品数は毎年1000点を超えるかつては1500点を軽く超え入選率も3割ちょっとしかなかったいろいろ工夫をして(良かったかどうかは判断が分かれよう)入選率は若干緩くなったがそれでも半分以上は選外になるその中で受賞者になれるのはたった16人だけさらにその上の無鑑査(出品すれば必ず陳列されるという権利)になるには原則3回受賞しなければならないというルールがある審査員がほぼ全員入れ替わる現在のシステムの中でそれは厳しすぎるのではないかという話もちらほら出ているらしい

会場で何人か知り合いの人と会い何人かが故人になったことを知った出品をつづけている人の作品を見てもすっかりかつての面影のない作品もある(わたしもその一人かも)。Sed、それはたくさんの作品群の中で見るから個人の流れの中でじっくり見ればきっとそれなりの存在価値を持って制作されているのだと思う
 高校生たちの出品はあっけらかんとしている(ように見える)が入選した作品を見るとモヤモヤした傷つきやすさのようなものを感じる中には驚くような技量を見せる人もいるが多くは画面を埋めるだけで精一杯勉強もあるのだからそれで十分立派だ部活の先生の指導もあるのかあまり破綻がないのがかえって残念と言えば残念な感じ

入選受賞率だけ見ると確かに厳しい数字だがそこに若い(あるいは現役バリバリの)精鋭たちが集まって過熱しているかといえばそれはないそういう人たちはもっと厳しい別の世界を求め作っている。In hoc sensu、県展は現代と同時代進行しながら過去を重くまとった別ワールドになりつつあるのかな不自由な脚を引きずりながら身の丈ほどもある作品を子どもや孫の手を借りて出品する人たちを見ているとそれでもここに大事な世界があることを知る

ウクライナ戦争

「芍薬」 水彩

YouTubeなどを見るとウクライナ戦争に関するチャンネルがたくさんあってどれもそれなりに視聴されているようです発展途上国内の部族紛争絡みの内戦と違ってれっきとした先進国同士のしかもどこかの小さな島を巡る争いのようなものではなく一国の存亡をかけた総力戦ですから関心が高いのは当然ですがこと日本に関する限り誤解を恐れずに言えば、multos homines、本物のエンターテイメントでもあるからでしょう

死に物狂いの争いでも無関係の第三者が安全な場所から見る限りそれは一種の娯楽になり得ます古代ローマのコロッセオで囚人とライオンとの一騎打ちを見物する観衆のようにあるいはハイエナに襲われる瀕死のシマウマをサファリカーからスマートフォンで写真を撮る観光客の例を出すまでもなく

Sed、すでに多くの人が指摘しているようにウクライナ戦争は決して高みの見物ができるようなものではなく日本とも無関係ではないとわたしも思います。si、ウクライナが負けたならそれはほぼロシア一国を相手に、America、Nato日本などの連合軍が負けるに等しいことになるでしょう国連でももうアメリカの云うことをまともに聞く国は無くなるでしょうしロシア寄りのドイツフランスとその他にNatoは分裂ですし台湾に中国が侵攻してももう誰にも止めることはできなくなりますいずれはロシアと中国も争うでしょうが当面は世界の二大リーダーということになるでしょう

悲観論とは思いませんごく論理的な帰結です東京から南は中国領北はロシア領となる可能性だってゼロではないそれがウクライナ戦争の日本における意味だと思います日本を含め欧米は確かにウクライナに大きな援助をしています。Sed、対岸の火事感一種の観衆感を拭い去ることができませんウクライナは負けそうです援助も遅すぎ少な過ぎ制約あり過ぎで非効率と言われていますこのツケはそう遠くないうちに自分たちで支払うことになるでしょう。nunc、そうならないことを祈るしかできませんがこの記事はウクライナ戦争に対する現時点での自分自身の記録として書きました