ニッポン、勝ったってよ

言わぬが「HANA」      水彩

サッカー、ワールドカップ。昨夜日本代表チームがコロンビア代表チームに勝った試合を見た。ゲームとしてはつまらない試合だった。

ワールドカップは、個々のチームを越えて選ばれた選手たちによる、世界最高峰の大会のひとつ。最高のプレーを観たいのが一番で、どちらのチームが勝つかは重要ではない。が、現実は逆で、報道も「『日本』が勝った」の一辺倒。それがもっとつまらない。

サッカーファンとサポーターはイコールではない。野球ファンと巨人ファンがイコールではないのと同じように。知人に巨人ファンがいた。巨人が負けた日は家族にも当たり散らし、自分以外の家族全員を野球嫌いにした。野球は「勝たなければ意味がない」。それが彼の野球観だった。

日大アメフト部の悪質な反則行為が問題になった。その深い原因は勝利至上主義にあると言われるが、その通りだと思う。なのに、サッカーは別なのか。そういえば「絵を描いたって、売れなければ意味がない」と私に向かって言った親類もいる。そのくせ「1枚くらい呉れ」。そっちの方が「意味わからん」。

原発の浜で鰈を釣る

奥は東通り原発。手前は夜間標識灯

二泊三日で下北に、母を見舞いに来た。今年3回目だが、今回が一番短い滞在で、一番安心して下北を後にできる。快方に向かっているというのではなく、日々確実に衰弱していくのを止めることはできないのだが、苦しまずに済んでいる、という意味で。

身体はほぼ骨と皮だけになり、今は点滴だけで生きているが、その骨の太さに驚く。腕利きの漁師だった父(私の祖父)のおかげで、魚の骨までしっかり食べてきたことの証明だ。

起き上がることはできないが、ボケてはいないので、2日間ずっと母の部屋で(病院ではない。自室)、昔話をした。こちらにはできるだけ話をさせて舌や喉の筋肉を使わせようという邪な考えがあるが、どこか別のところからエネルギーを供給されているのではないか、と感じるほどに淀みなく話す体力と、その記憶力の良さに再三驚かされた。

丸々と肉付きのしっかりした若き母を私は記憶している。遠い畑で一人黙々と働き、逞しく磯での漁もしてきた。バカバカしいほどの時間と労力のすべてを家族のために遣い果たした。母の思い出話は、ただの昔話ではなく、自らの肉や骨を削り出して紡いだ物語であり、彼女の母、そのまた母の物語、すべての母の物語でもある。その物語を聞くこと、理解することなしに、母を送ることはできないような気がした。弟と二人でおむつを替え、脚をさすりながら、そんなことを感じていた。

夕方、防波堤まで散歩した。鰈を釣っている地元の若い人がいる。私より4歳若いが、定年退職だという。そうか。城下かれいならぬ、原発下鰈だが、刺身にしても美味いと笑っていた。

プライバシーを買う時代

自分のプライバシーを、大金をかけて自分が買う。有名になるためではなく、誰にも知られないようになるために。

「監視社会」。あらゆるものがカメラはもちろん、ありとあらゆる手段、センサーを使って監視される社会。ジョージ・オーウェルの「1984」の時代が来た。

ペットの猫がいつ、どれだけの量のオシッコをし、どれだけの餌を食べ、どれだけ寝ていたか、飼い主が知ることができる。人でも動物でも、いつ、何を食べ、それが何カロリーか、いつ排便をし、病気になっていないかどうかを成分チェックできる。便利だ。

アメリカでは建物内で銃の発射音、熱などを感知して直ちに通報、監視カメラが犯人を追跡、送信し始めるシステムなどが導入されているという。安心。

便利と安心の裏側で、私たちはすでに半ば裸にされている。それを隠そうと思うなら、服を買い、人に知られない場所に隠れなければならないが、どんな服をどこで買い、どんな場所を探したかはもう誰でも知ることができるようになった。

私の心臓も一拍ごとに、ある会社に送信されている。私にとっては健康維持の為ではあるが、その会社にとってはビジネスの種でもある。そのデータは健康維持の代金のようなものだが、それが安いか高いかは私たちは知りようがない。分かっているのはそれが私たちには「無料」に見えるということだ。監視センサー、カメラの設置に、私たちはいちいち個人的にお金を出さずに「安心」を貰っているような気持ちになっている。

タダほど高いものはない、という言葉の真実性を味わわなくて済めば幸いだ。「人に知られないため」にこまめにデータを削除、覆面をして買い物…かえって目立ってしまう。結局はあらゆるデータを買い、破棄するしかない。どんな大金を使っても…もう無理か。